PR

「元禄赤穂事件」のその後~大石内蔵助良雄・浅野内匠頭長矩・吉良上野介義央の家はどうなった?子孫は?

 日本史上で有名な事件のひとつに「元禄赤穂事件」があります。吉良上野介義央を打ち損じて切腹となった主君・浅野内匠頭長矩の代わりに、家臣の大石内蔵助良雄以下47名が上野介を討ち、その後46人が切腹となった事件です。

 この記事では、事件の主要人物である大石家・浅野家・吉良家が事件後どうなったのか?また子孫についても紹介します。

大石家のその後

 元禄16年(1703)2月4日、大石内蔵助良雄は身柄を預けられていた肥後熊本藩主細川家の下屋敷において切腹し、その最期を遂げます。

 良雄には、三人の男子と二人の女子がいました。長男の主税良金は父と同じく討ち入りに参加して切腹しています。

 妻・りく、次男・吉之進、長女・くう、次女・るりは罪が及ばないように離縁されて、りくの実家の但馬国豊岡に戻っていました。その後、次男の吉之進は、出家して仏門に入っています。

 妻・りくはこの時妊娠しており、三男の大三郎は豊岡で誕生しました。

 討ち入りから6年後の宝永6年(1709)に将軍が綱吉から家宣に代わります。その恩赦で義士の遺子たちは免罪となります。この時点で次男・吉之進と長女・くうは若くして亡くなっています。

 これにより、良雄の男子でただ一人生存していた大三郎を広島藩浅野本家が家臣に迎えようとします。浅野本家としては、世間に人気がある大石内蔵助の息子を家臣に欲しがったということです。

 そして、正徳3年(1713)9月に大三郎は広島藩に仕官が決まり、父と同じ知行1500石で召し抱えられ、広島城二の丸の屋敷を与えられています。母・りくと姉・るりも一緒に広島へ移り住みました。

 享保2年(1717)、大三郎は16歳で元服し大石良恭(よしやす)と名乗ります。享保6年(1721)には藩主浅野吉長の命により浅野一族の娘と結婚しており、厚遇されていたことがわかります。

 ちなみに、良恭は生涯3回結婚して、その内の二人は浅野一族の娘でしたが、いずれも離縁しています。

 また、姉・るりは浅野家の一族浅野直道に嫁いで53歳で亡くなっています。良恭は、広島藩内において旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職についています。

 良恭は、明和5年(1768)に隠居します。男子が二人いましたが、いずれも妾が生んだ子であったためなのか、なぜか実子に跡を継がせず、同じ広島藩士の小山家から良尚(よしなお)を婿養子に迎えて大石家の家督を継がせました。

 この時、知行が1500石から1200石に減らされています。

 養子に迎えた良尚の曽祖父・良速(よしずみ)は、父・良雄の叔父で小山家に養子に入った人物です。ようするに、大石家と小山家は元々親戚関係にありました。

 しかし、良尚は、嫡男に早くに先立たれて、寛政9年(1797)には大石家を去って、実家の小山家に帰って亡くなっています。

 大石家は断絶となりますが、寛政9年、良恭の庶子で横田家に養子に入っていたとされる良遂(横田正虎)の次男温良が大石に改姓し、500石を与えられます(横田大石家)。(横田家との血縁関係については一部異説もあり)

 明治維新時に、新政府が泉岳寺で赤穂浪士を顕彰し祠堂を造営した際は、広島藩知事浅野長勲の命により、当時の横田大石家の当主大石良知が、所蔵していた良雄の木像を泉岳寺まで持参しています。

 なお、横田大石家も、明治23年(1889)の良知の死により断絶したといわれています。

赤穂浅野家のその後

 赤穂浅野家は、秀吉の縁戚で豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の三男、長重の系統であり、内匠頭長矩は長政の玄孫に当たります。

浅野大学家

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城松之大廊下(まつのおおろうか)で、高家・吉良上野介義央に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が刃傷におよび、長矩はその日のうちに切腹となります。

 そして、浅野家は領地没収の上改易され、赤穂藩浅野家は一旦断絶となりました。長矩には、子がいなかったため、以前から弟の大学長広を養子にし、後継者としていました。

 長広は、兄・長矩から播磨国赤穂郡新田3000石を分与されて、旗本寄合席になっていました。旗本でありながら、兄の赤穂藩主家の後継者だったのです。

 しかし、事件後、兄に連座した長広は、3000石の所領を召し上げられ、広島浅野本家にお預けとなります。長広にはお預け中に広島浅野本家から1000俵が支給されていました。

 吉良邸討ち入りがあったのはそれから5か月後のことです。

 宝永6年(1709)、5代将軍徳川綱吉が亡くなり、6代将軍徳川家宣が就任すると、将軍死去による恩赦により、元禄赤穂事件に連座していた関係者への処分が全て解かれ、無罪放免となります。

 事件後、広島浅野本家にお預けの状態にあった長広も赦免され、晴れて自由の身となり、広島から江戸に戻っています。

 翌宝永7年(1710)、江戸城で将軍に拝謁し、安房国で500石を与えられ旗本に復活しました。小禄ながらも赤穂浅野家の御家再興を果たしたのです。47士の討ち入りが世間から喝采されたことも関係しているのでしょう。

 また、これとは別に広島浅野家から年300石を支給されました。元々の赤穂藩5万3000石からすれば、ほぼ100分の1ですが、家名が復活したことには違いありません。

 この長広の子孫は、代々500石の旗本として存続し、明治維新を迎えています。また、江戸時代の最後の当主・長栄(ながひで)は、江戸城が開城したのち、明治天皇に行政官として仕えています。

若狭野浅野家と家原浅野家

 赤穂浅野家には他にも2つの分家旗本(若狭野浅野家・家原浅野家)がありました。

 若狭野浅野家は、赤穂藩家老大石良重(内蔵助良雄の祖父の弟)の長男・長恒が、赤穂藩初代藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)の養子となって成立した家です。なぜ、家老の息子が藩主の養子かというと、長恒の母が藩主浅野長直(内匠頭長矩の祖父)の娘・鶴姫だったからです。つまり長恒は母方の祖父の養子になったことになります。

 長恒は、寛文11年(1671)、赤穂藩領から若狭野12か村3000石を分知され、旗本となります。

 もう一つの家原浅野家も赤穂藩浅野家から領地を分知され成立した家です。寛文11年(1671)、浅野長賢が、加東郡内11か村3500石を分知され、加東郡家原村に陣屋を構えて旗本家原浅野家の祖となりました。

 この長賢は、浅野長直の従兄弟で長直の養子になりましたが、長直に実子長友(内匠頭長矩の父)が誕生したため家督を継げず、部屋住みに落とされました。のちに長友から3500石を分知され旗本になったのです。

 この長賢の婿養子に、若狭野浅野家の祖となった長恒の弟長武が入り跡を継いでいます。

 長恒・長武兄弟は、浅野、大石両家の血を引いており、浅野内匠頭長矩と、大石良雄の父良昭の従兄弟に当たることになります。

 内匠頭の刃傷事件後赤穂城の引き渡しを終えた内蔵助は、長恒に対し、城引き渡しの報告と大学長広の取り立て斡旋を依頼しています。

 なお、当時幕府官僚として、長恒は山田奉行、長武は御先鉄砲頭を務めており、広島の浅野宗家とともに討ち入りに反対し、浪士らの引き留めに当たっていました。

 結局両家とも、内匠頭長矩の刃傷の後と吉良邸討ち入りの後の2回にわたり本家に連座して出仕を禁止されましたが、すぐに許され、その後長恒は堺奉行、長武は御持弓頭などを務めています。

 元々両家の知行地は、実質的に赤穂本家が治めていたようですが、赤穂浅野家が改易後は、本格的な陣屋を造営し自ら治めるようになったようです。

 若狭野浅野家と家原浅野家は両家とも旗本として数々の重職を歴任し、幕末まで続きます。なお、若狭野浅野家は、改易となった赤穂浅野家の文書類を代々引き継ぎ、後世に伝えています。

 若狭野浅野家は、維新後に新政府に対し「浅野長矩主従御赦免願」を提出し、罪人とされていた長矩と討入浪士らの名誉回復を図っています。

吉良家のその後

吉良義周

 江戸城松之大廊下で、吉良上野介義央が浅野内匠頭長矩から刃傷を受けた後、義央は事件の影響で隠居します。これに伴い、養嗣子の吉良義周が吉良家の家督を継ぎました。

 この義周は義央の長男である米沢藩主上杉綱憲の次男として生まれました。そして、5歳の時に三河吉良家の跡取りとして祖父である義央の養子になっています。
名門の生まれで、優れた才能を持ち、将来を大変期待されていたそうです。

しかし、そんな彼は元禄赤穂事件により運命が一変することになったのです。

 元禄15年(1703)12月14日、赤穂浪士討ち入り事件が起こります。討ち入りの時、義周は赤穂浪士と交戦して、数箇所の傷を負わされて気絶し、気がついた時には既に養父義央は討ち取られ赤穂浪士の姿は無かったとされています。

 米沢藩の記録によると、義周は眉下に約15㎝ほどの傷と、あばら骨を1本切っており、かなりの重傷だったことがわかります。

 赤穂浪士の討ち入りがあってから約2か月後、義周は幕府評定所に呼び出され、事件の沙汰を受けることになります。そして、討ち入りの際の義周の対応が「仕方不届」として、領地を没収し、信州諏訪高島藩にお預けとする厳しい処分が言い渡されます。

 赤穂浪士と交戦して、重傷まで負ったのに「仕方不届」とは、、、あまりにも理不尽な裁定といっていいでしょう。

 義周は罪人用の籠に乗せられて、諏訪高島藩邸まで移送されました。信州諏訪へは家老の左右田(そうだ)孫兵衛と小姓の山吉盛侍(もりひと)の二人のみ随行を許され、諏訪家の家臣130名に護られ江戸から信州諏訪へと護送されています。

 この時、義周に付き添った山吉盛侍は討入り当夜、吉良家家臣のなかで最も奮戦した人物といわれており、大怪我を負いながらも生き延びています。

 諏訪に到着した義周は、高島城南丸に幽閉されることになります。この南丸は徳川家康の六男松平忠輝が幽閉されていた場所としても知られています。

 諏訪家としても義周に同情していたのか、一般の罪人に比べるとかなり優遇されたようです。義周は「左兵衛様」と敬称されて、丁重に扱われていたといいます。

 同じ鎌倉以来の名門で、かつ信州と縁が深かった上杉家の子孫ということで敬意を払っていたのでしょう。

 ただし、義周の自殺防止に対しては、かなり神経質に対応していたようで、諏訪家の記録に、爪を切る時や鋏を使う時の細かな指示書が残っていたそうです。

 宝永元年(1704)には、実父上杉綱憲と祖母で養母でもある梅嶺院(ばいれいいん)が相次いでこの世を去っています。

 当初は健康状態も良好でしたが、相次ぐ身内の不幸や慣れない寒さがたたったのか次第に病気がちとなり、宝永3年(1706)1月19日に死去しました。遺体を引き取る者がいなかった為に菩提は高島城に近い法華寺に土葬されました。享年21歳でした。

 赤穂浪士たちが忠臣として持て囃される一方で、吉良家は周囲から冷たい視線にさらされていました。さぞ、無念な最期だったでしょう。

 義周の墓所には愛知県吉良町から贈られた「吉良義周公に捧ぐ」という案内板が設置されており、文面には「公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった」と綴られています。

その他の吉良家

 義周の死によって、義央の直系は絶えてしまいましたが、義央の弟・東条義叔(よしすえ)が500石の一般旗本として幕府に仕えていました。

 享保17年(1732)、その義叔の孫に当たる義孚(よしざね)が三河吉良本家が絶えていることを理由に吉良への復姓を幕府に願い出て許されました。

 しかし、この旧東条家の吉良家は東条姓時代と同じく一般旗本のままであり、高家の格式は与えられませんでした。以後、明治維新まで500石の旗本として存続します。

 なお、三河吉良家と遠祖を同じくする別系統に蒔田家(まいたけ)という家がありました。

 蒔田家は武蔵吉良家の末裔で、元は吉良姓でしたが、三河吉良家に遠慮して蒔田姓に改めたといわれています。4代将軍・徳川家綱の時に蒔田義成が高家とされました。

 赤穂事件以来、三河吉良家が断絶していたため、宝永7年(1710)に武蔵吉良家の末裔である高家の蒔田家が吉良姓の復姓を希望して許されています。

 この武蔵吉良家が明治維新まで「高家吉良家」として残ることになったのです。

 旧東条家の旗本吉良家と高家の武蔵吉良家は、どちらも義央の子孫ではありませんが、義央の血脈は、米沢藩主上杉家を通じて現代に残っています。

崇禅寺馬場仇討事件~返り討ちで命を落とした兄弟
崇禅寺馬場の仇討とは、江戸時代の正徳5年(1715)に大阪で起きた兄弟の仇討ちが失敗に終わり返り討ちに遭った事件です。
桜田門外の変~水戸藩から彦根藩への病気見舞い!?
大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変は水戸の脱藩浪士によって引き起こされましたが、襲われた彦根藩ではなく襲った側の水戸藩の動向にスポットを当ててみたいと思います。
稲葉正休と堀田正俊と虎徹~江戸城刺殺事件
貞享元年(1684)、江戸城中で若年寄稲葉正休(まさのり)が大老堀田正俊を刺殺する大事件が起こります。
江戸の女武者~大名屋敷の女別式
江戸中期、大名屋敷の奥向(私邸空間)には「女別式」と呼ばれる女武者がいました。
大名の跡目争い~備中松山藩池田家における斬殺事件
寛永9年(1632)備中松山藩6万5000石の藩主池田長幸は重い病の床にあり、一族の主だった者達が集まって跡継ぎを決める会議をしましたが・・