本多忠勝の生涯
本多平八郎忠勝は徳川四天王の一人で、生涯五十数度の戦でかすり傷一つ負わず、家康には過ぎた家臣とまで言われた最強とされた武将です。
忠勝は、天文17年(1548)に松平譜代の家で生まれた生粋の三河武士で、徳川家康より6歳下とされています。
家康が織田信長と同盟を結ぶため清州に赴いたときのことです。家康一行を見た大衆は「信長様に許しを請い臣従するために来た」と舐めた態度をとったそうです。
するとわずか14歳の忠勝は刀を抜いて行列の先頭に立ち、「信長公と誼を通じるために参られた家康公の行列であるぞ。無礼は許さん!!」と大衆を威圧し家康の面目を守りました。
15歳のときの戦では、敵を倒した叔父が忠勝に「首を取れ」と手柄を譲ろうとしましたが、「人の手を借りて武功はたてぬ」と断り、自分自身で敵の首を挙げてきたといいます。
家康が武田信玄に惨敗し命の危機であった三方ヶ原の戦いでは殿を務め、獅子奮迅の戦いにより家康を無事浜松城に帰還させ、敵である武田軍からも
「家康に過ぎたるもの二つあり。唐の頭に本多平八」
と称賛されたのでした。(「唐の頭」は当時徳川家中で流行っていた舶来の兜飾り)
生涯傷一つ負わなかったと言われますが、決して安全な戦いばかりをしていたのではありません。
織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍が激突した姉川の戦いでは、朝倉勢1万を相手に単身突撃して味方を勝利に導き、小牧長久手の戦いではわずかな兵で豊臣方を食い止め、敵であった秀吉から
「東国一の勇士」
と称されるなど勇猛果敢な武将でした。
家康の関東移封時には榊原康政とともに10万石(上総国大多喜:現在の千葉県夷隅郡)を与えられ、その後伊勢国桑名に移封され、慶長15年(1610)に死去しています。
晩年は、家康の重用が、忠勝ら武功派から本多正信ら行政手腕に優れた文治派へと移っていったことに不満と寂しさを感じていたようです。
蜻蛉切
忠勝愛用の槍として「蜻蛉切」が有名ですが、これは飛んできた蜻蛉が刃に触れ切れたほどの名物であったことから名付けられたといわれています。
忠勝は年を取った時に蜻蛉切を振り回し、自分の力が衰えてきたことを感じるとあっさりと長年愛用した槍の柄を短く切り落としたそうです。自己の力を過信しない柔軟な対応力を持っていたからこそ、戦場で一度も傷を負わなかった一因であるのでしょう。
忠勝は槍術下手?
なんと、忠勝は槍術の稽古が下手であったとの話があります。家中の者の稽古に交じってやると経験の浅い若者に突かれたりしたそうです。
ただ、忠勝が実戦で強かったのは間違いなく、槍の名手で「槍弾正」との異名をとった保科正俊も実戦では無敗を誇りましたが稽古は負けてばかりだったそうで、実戦と稽古では勝手が違ったのでしょう。
本多忠勝の子孫(その後の本多家)
忠勝の跡は嫡男忠政が継ぎ姫路藩主などを務めますが、家康の嫡男信康の娘熊姫と婚姻し、更にその子忠刻には、あの有名な千姫が再嫁しています。
その後子孫は領地替えを経て家康生誕の地である岡崎藩主として続き明治維新を迎えます。
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