徳川家康が最も寵愛したものは
「雁殿、佐渡殿、お六殿」
といわれていました。
雁殿は家康が幼少期より好んだ鷹狩り、お六殿は晩年の家康が寵愛した側室の名前、そして佐渡殿が、本多佐渡守正信です。
徳川四天王ら歴戦の武功派と異なり、権謀術数で家康の天下取りを支えました。
正信は天文7年(1538)三河で生まれた譜代の臣です。しかし、家康三河平定時の危機であった三河一向一揆では、一揆側に与して家康と敵対しています。
一揆後は徳川家を離れ諸国を放浪しました。一時あの松永久秀の元にも身を寄せていたようで、久秀が、
「徳川の臣は武勇の士ばかりを見てきたが、正信だけは尋常の人物でない」
と評したといわれます。
正信の能力を知る大久保忠世らのとりなしで徳川家に帰参が許された後は次第に家康に重用されるようになり、関東入府の際は総奉行に任命されるまでになります。
秀吉没後、福島正則や加藤清正など武功派に石田三成が襲われそうになった際は、三成を庇うよう家康に進言したともいわれます。三成が生き残ったことで豊臣家臣は分裂し、関ヶ原の戦いを経て徳川の天下につながっていくのです。
関ヶ原の戦いでは秀忠の参謀として徳川本軍に加わり、途中の真田攻めに失敗し関ヶ原に遅参する大失態を犯しましたが、家康の信頼は変わることはありませんでした。
徳川家に限らずどの家でも、太平の世に代わると武功派ではなく行政手腕に優れた文治派が重用されていきますが、三成や正信は典型的な例だといえます。
なお、真田攻めの失敗を武功派の大久保忠隣や牧野康成の家臣の責任として責め立てたことから、忠隣らと不和になっていきます(忠隣はやむを得ず家臣を切腹させ、康成は「責任は正信にある(゚Д゚)ノ」と家臣をかばったため改易・・)。秀忠に責が及ぶのを防ぐための正信らしい策だったのでしょうが・・
戦では大した武功を立てていないどころか真田攻めでも大失敗した正信が家康・秀忠から重用されることに、命懸けで戦場を駆け抜けてきた四天王ら武功派は反感を持ち憎悪の対象になっていきますが、正信は彼らより自分の禄を低く抑え(2万石程度)清廉な態度を貫くことで身を守っていきます。
ちなみに正信のことを、本多忠勝は「佐渡(正信)の腰抜け」と、榊原康政は「算盤勘定しか知らぬ腸腐れ者」といって嫌っていたといわれています(>_<)
元和2年(1616)4月家康が没すると、同年6月正信も後を追うように亡くなります。
跡を継いだ子の正純も秀忠に重用されますが、加増を断り続けた正信と異なり高禄を(宇都宮15万5000石)受けています。
このことが宇都宮釣り天井事件による本多家の改易を招いたともいわれています。
なお、正信の次男本多政重は、あちこちの有力大名の間を渡り歩く謎の多い生涯を送っています。
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