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阿蘇惟澄と蛍丸

 建武3年3月、筑前国多々羅浜(現福岡市)において、肥後の阿蘇大宮司惟国の子、惟直、惟成、惟澄の三兄弟は同じく肥後の菊池武敏とともに南朝側として足利尊氏と戦いました。しかし激戦の末、惟直、惟成ら一族と菊池一党も次々と討死してしまうのです。

 ただ惟澄一人散々に太刀を振り回し敵を斬り倒しながら血路を切り開いて戦場を脱出し、肥後矢部の居所に戻ることができたのです。

 この時惟澄が使っていた太刀は3尺5寸の来国俊作のものでしたが、終日の乱戦でぼろぼろに刃こぼれしササラのようになっていました。

 当日の夜、惟澄は、数万の蛍が飛んできて太刀の刃にとまる夢を見ました。

 翌朝目が覚めると太刀の刃こぼれが無くなって元通りの美しい刃になっていたといいます。

 この太刀を惟澄は「蛍丸」と名付けたそうです。

 さすがに蛍の話は信じることができませんが、古刀の名刀は刃こぼれしても上手く磨けば元通りになったそうです。刃こぼれした蛍丸も磨きなおすことで元通りになったことからそのような伝説が作られたのではないでしょうか。

 蛍丸はその後も阿蘇家に伝来していましたが、残念ながら太平洋戦争終戦時の混乱の中で行方不明となっています。