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徳川家康と織田信長の関係~両者はいつから対等な関係でなくなったのか?

徳川家康と織田信長の関係

 徳川家康と織田信長の間で、永禄5年(1562)に清洲同盟が結ばれます。この時から天正10年(1582)に「本能寺の変」で信長が亡くなるまでの20年間、両者は同盟関係を継続していました。

 しかし、最初は対等であったはずの同盟関係は、いつからか家康が下の従属関係に変化していきます。はたして、両者の関係が対等でなくなったのはいつ頃からでしょうか?また、そもそも最初は対等だったのでしょうか?

清洲同盟締結(1562年)

 永禄5年(1562)当時の両者の支配領土は、信長が尾張国の大部分(約45万石ほどか)、家康が西三河一帯(約15万石ほどか)だったと推定されます。同盟スタート時点から、3倍ほどの国力差があったわけです。

 形式的には、五分と五分の対等同盟だったのかもしれませんが、実際はお互いが信長の方が上だと認識していたのではないでしょうか。六分と四分ほどくらいかなと・・・(^_^;)

 しかし、完全な対等関係ではないにせよ、従属関係ではありません。

姉川の戦い(1571年)

 浅井・朝倉連合軍と戦った「姉川の戦い」で、家康は信長の要請に応じて、兵5,000を率いて参陣しています。

 家康にとっては、勝っても領土が広がるわけではありませんが、遠く遠江国からやって来たわけです。はっきりいえば、徳川家とはあまり関係ない戦いに家康自らが兵を率いて参陣しているのです。

 この戦いで、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍に勝利し、活躍した家康は名声を得ることになります。ただ、自家に直接関係ない戦いにかり出されていることから、従属関係とまではいえませんが、両者の上下関係がはっきりしていたのでないでしょうか。

三方ヶ原の戦い(1573年)

 永禄12年(1569)1月から家康と武田信玄は手切れとなり、抗争状態に突入します。「三方ヶ原の戦い」は、家康軍11,000(織田家からの援軍3,000含む)と信玄軍25,000の戦いといわれています。徳川軍には織田家からの援軍がありましたが、それでも兵力差が大きかったために、信玄に大敗しています。

 この後、信玄が亡き後も跡を継いだ勝頼と戦い続けることになりますが、家康は単独で勝頼に対抗するのは厳しい状況でした。

 そして、この対武田家との抗争で信長の援助に頼らなければならない状況が、従属関係へ変化していくきっかけになったと思われます。

長篠の戦い(1575年)

 信玄亡き後も武田家は健在で、当時の徳川家では、単独で武田家(勝頼)にはかないませんでした。信長の30,000ともいわれる援軍があったればこそ、「長篠の戦い」で勝利をおさめることができたのです。

 ようするに、信長の後ろ盾がなければ、勝利はおろか、下手をすれば武田家に滅ぼされてもおかしくない状況でした。この状況から、もはや同盟とは名ばかりのほぼ従属関係にあったと思われます。

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水野信元殺害(1576年)

 天正3年12月(1576年1月)に信長の命を受けた家康により、水野信元は殺害されます。信元は家康の母方の伯父にあたる人物です。対等な同盟関係であれば、同盟相手に親族の殺害を命令できるはずがないので、完全な従属関係にあったといえます。

築山殿・信康事件(1579年)

 通説では、家康が信長から命じられ、妻の築山殿を殺害し、嫡男信康に切腹させたといわれていました。しかし、最近の研究では、信長からの命令ではなく、家康が独断で命じたとの説が有力視されています。

 通説の元である『三河物語』は、家康の家臣である大久保彦左衛門が、事件から50年ほど経った江戸時代初期に著したものです。『三河物語』自体は、かなり信憑性に欠ける史料で、家康を擁護するために、信長からの命令で仕方なくというように書かれています。

 しかし、実際は信長からの命令ではないとしても、周囲がそう思うような力関係(従属関係)であったことは間違いありません。

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武田家滅亡(1582年)

 家康は甲斐征伐の論功行賞として、信長から駿河一国が与えられています。これは、羽柴秀吉や明智光秀などの家臣に対する扱いと同じなので、ほぼ織田家臣と同様の関係になったといえます。

 ただ、その後家康を安土に呼んで饗応していることから、完全な家臣とまでは思っておらず、織田家臣団の序列の中では別格という扱いだったと思われます。

結局、いつ頃から従属関係になったのか?

 以上、家康と信長の関係の変化がわかるいくつかの事例を紹介しました。最初から完全な対等同盟ではなかったでしょうが、明らかに関係が変わりはじめたのは、対武田家との抗争で、信長の援助を頼むようになった頃からだと思われます。

 少なくとも天正4年(1576)頃には、完全に従属関係になっていたといえます。これは、天正3年(1575)の「長篠の戦い」で、武田勝頼を敗退させたことで、東国においても信長の優位性が確立されたことが、原因だと考えられます。

 「長篠の戦い」前であれば、家康が勝頼に寝返る可能性もあったため、家康に対してそこまで強硬な態度にはでれなかったと思いますが、大敗させたことで遠慮する必要もなくなったことでしょう。

 そして、武田家滅亡後に駿河国を信長が家康に与えたという形をとったことで、従属関係から前進して、織田家臣と同様な主従関係に近づいたといえます。

 こうしてみると「本能寺の変」がなければ、1、2年後には家康は完全な織田家臣団の一員になっていたのではないでしょうか(^_^;)

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