山内家に伝わった名刀「一国兼光」に関する逸話について紹介します。
山内忠義は山内一豊の甥で、子のいなかった一豊の跡を継ぎ土佐藩第2代の藩主となっていました。
ある時、御三家の紀州徳川頼宜(紀伊大納言)が、忠義の愛蔵する「兼光」が世に名高い大業物であるというのを伝え聞いて、藤堂高虎に対して忠義の兼光を所望してくれと頼みます。
高虎は、
「土佐守も他ならぬあなた様の御所望ならば喜んで差し上げるでしょう」
と頼みを請け負い、早速忠義の元へ赴きます。
そして紀伊大納言からの話をすると、忠義は
「もっての外でござる。あれは当家秘蔵第一の刀。進上することなど思いもよらぬ」
と語気を強めて突き放します。
思いもよらぬ反応に高虎も引き下がらず、
「そうはいっても、もし将軍からの御所望であったのならば差し上げずにはおれないのではないか」
と詰め寄りますが、忠義は、
「たとえ将軍の命であっても兼光は差し上げ申さぬ。土佐一国に代えてもお断りする」
と断固として拒否したため、高虎も諦めて引き下がったということです。
しかし、この話が広まって、土佐公の「一国兼光」と評判になったのでした。
以上が逸話ですが、実際には寛永13年(1636)に、徳川家光から忠義が本刀が下賜されたとの記録が残っており、この逸話はあくまでも創作のようです。
本刀はその後も山内家に伝来され、平成になって山内家から高知県に寄贈され、現在は高知城歴史博物館に収蔵されています。
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