明治維新50年を記念して編纂された『維新戦役実歴談』から、梨羽時起(なしはときおき:男爵:旧名梨羽才吉)という長州藩士の回顧談を紹介します。
梁田の戦い
慶応三年十一月二十九日三田尻港を発し備後尾道に滞陣。慶応四年即ち明治元年正月に備後の福山藩を攻撃してそれから二月十二日海路を進んで京師に入り、そこで長藩の第一大隊二番中隊の小隊司令となった。
それから東山道の先鋒の命令を受けて十四日に京都を立って十八日に大垣に着いた。ここでその他薩州、土州、因州、大垣の兵と一緒になって二十一日に大垣を出発した。二十二日に加納駅に宿った。
これより前に各藩は斥候隊を出しておったが、長藩も分隊斥候を繰り出せという命令があったから、第二中隊の一番分隊と、それから三番隊の一分隊と思ったが、一緒に混ぜて吾輩が連れてズンズン少しづつ里数を増して諏訪で本斥候隊と一緒になった。その時に甲州勝沼の方へは土州、因州の兵だけが行ってそれでたしか薩州と長州ばかりになった。
三月八日の晩に熊谷宿に居ると薩州の川村与十郎さんから呼びに来たからそこへ行った。すると先刻羽生(はにゅう)辺を偵察して戻った者が言うには古屋作左衛門(古屋佐久左衛門:幕府陸軍歩兵差図役頭取)が兵を一大隊ばかり引っ張って本陣を突かんとするような勢いがある。その者が羽生を発して今晩あたり太田宿へ泊る予定であるということを報告してきたから、そ奴を防がなければならぬがこちらは人数が少ないが斥候隊で夜襲に掛かろうと思うという相談があったから、すぐに同意してそれからその晩にすぐさま太田へ向かって出発した。
そうして九日の夜明け前、太田宿の二三町手前まで行って敵の模様を探った。ところが来て居らぬということである。そこで折角夜襲に来ても居らぬというから仕方がないが、とにかく問屋場へ行って、その頃は問屋場は目代と言っておった。そこへ行き尋ねてみたところがそんなことは知らぬという。
そこで色々尋問している最中にかの古屋作左衛門の方の先触れが丁度そこに来て、昨晩は泊まるはずじゃったけれども二つ前の梁田(やなだ)という所へ泊ったと言っておった。それで今日ここへ来るという事が分かったからどうしようと相談している中に夜が明けてしまった。
夜が明けてしまったが先方は大勢であるがこちらは僅かの人数しかいない。どうしようかという色々協議の結果、とにかく負けても構わないから行こうということに話が決して出て行って隣村の八木という宿があってそこに行ってその宿に火の見櫓があったからその火の見櫓に登ると向こうに梁田が見えるが別に軍隊の出発するような模様もない。
それじゃあ直ちに行こうと言って梁田宿の前まで行ったのが朝の八時位であったろうと思う。その時大垣藩は官軍になってから戦いは初めてであるから大垣の隊を先にやった。ところが何やら躊躇するような模様があったからして、薩摩の四番隊の内の四五人が斥候見たようになって、一番先に行って大垣の隊を誘導して、一番初めに正面の入口へ行った。それから薩摩の本隊はそれよりずっと左へ向かって散兵して、それから攻撃に掛かった。
我輩はたった二十人で今度は右の方の町の横に行って、その街の真ん中程に突貫して野砲のある所へ出て野砲をどうやら分捕った。それから街の中へ五人街の裏側へ五人遣って残りの十人を人が足らないからあちらへやったりこちらへやったりして到頭その中に分捕った野砲をもって先方を撃っていた。けれども弾丸がないから大垣の三斤砲の弾丸を借りて撃ったのである。弾丸が小さいから一つもいかない。ただし何遍もやるうちに幸いにしてよい具合に向こうに寄って居る奴の所にあたって先方が全然引くようになったから、薩摩の本隊がずっと後ろを追いかけて行って丁度一里ばかり追うてその日はそれで止めてしまった。
後で調べてみると外に何千挺という小銃を持って居った。これは兵を募るつもりであったということである。それでその晩はそこへ泊って翌日出て行った。その三月九日の戦争が済んだのが正午ごろだったろう。
忍城談判
翌日羽丹生の陣屋に敵の後詰の兵が居るということであるからそこへ行ってみた。ところが忍藩の兵が二小隊ばかり居ったから貴様たちは何のためにおるのか、やはり古屋作左衛門の手の後詰に居るのだろうというと、そうじゃない、ただ外に色々賊が来ないようにとか何とか色々妙な言訳をする。嘘に違いないからとにかく貴様達はそこを退け、退かなければ撃つというと帰ってしまった。
そこで陣屋を焼いて翌日忍へ押しかけるという時に、鳥居強右衛門という人が出て来て別に抵抗する訳ではないからというのをきかずにどんどん進んで無理に行ってしまったから隊長の丹羽蔀という者が途中で腹を切って死んでしまった。
それで忍へ行って小銃を撃ちかけたところが先方は裃で低頭平身して来て、とにかく我々は官軍に抵抗する者ではない、兵も大勢居るわけではないからというので、城に行って談判したが松平下総守は病気だということであったが城下の盟をしてそれから兵を出すことになった。忍藩の謝罪状を左に掲げ置く。
鳥居強右衛門 判
楢崎頼三 殿
梨羽才吉 殿
草刈藤次 殿
宇都宮方面の戦い
それから本隊と一緒になって板橋に行って暫く滞陣して休息したが、三月二十七日に有地品之允、原田良八、草刈藤次と一緒に横浜を見物に行った。
四月十六日に岩倉総督が江戸城に入られるというので我輩は一小隊を率いて牛込門まで出張って、間もなく又板橋へ帰った。これより前に野州方面に幕府の脱兵が集まって、その勢いが猛烈だから援兵を出してくれと宇都宮藩から板橋の総督本陣へいうてきた。
そこで祖式金八郎の指揮の下に彦根その他の兵が千住口から進み宇都宮及び結城に行ったが、賊が強くて官軍が度々負けるという報知が来た。そこで四月十八日薩兵一小隊、大垣兵一中隊、我藩兵は二番隊が命令を受けて板橋を立って宇都宮の方へ行く途中幸手宿へ行った。
ところが下総の方から又敵の歩兵が出て来るという報告を聞いたからそれで宇都宮の方へ行くはずだったが、そこから関宿の方へ渡って、それから二十日の朝と思うが岩井村という所に敵が居るから我二番隊のみをもって行って撃ち退けてその晩はそこに泊まった。
この岩井村の敵は何でも極つまらぬ者ばかりでした。つまらぬ者を無理に集めて連れてきたようでした。その時に一人捕えた奴があって首を斬ってやろうというところが年を老った奴でむやみに助けてくれというゆえに、とうとう斬るばかりにしてあったのを止めて戦争の仕舞まで使っておった奴がありましたが、それの話でも皆つまらぬ奴のようだった。そ奴は東京の者で岩井で捕まえた奴だから名を岩助と付けて岩助岩助で飯を炊かしたりすることに使っておりましたが、その岩助の話にも皆嫌がるのを無理に集めて大島さんの方と一緒になるつもりでその行きがけの道だったそうです。
なんでも村があってその村の前が田になっておってその右手の方が少し高くなっておって小さい樹木のある所でそこへ鉄砲を撃ったのが僅か一時間でしたろう、そうするとじきに何処やら逃げてしまいました。追撃も何もせずに散々になってしまったのです。
それから二泊位して結城に行って、結城から二十三日ですか、日は覚えませぬが、宇都宮へ行くつもりで早く出て小山宿へ行った。ところが薩州の五番隊の野津隊長と出会って話をしているうちに宇都宮方面に当たって砲声が聞こえるからこれは宇都宮で戦争が始まっているに違いない、行こうじゃないかというので宇都宮へは八里ばかりあるが朝八時頃からズンズン行きおった。
ところがその一つ前の雀の宮という宿まで行った、それから宇都宮に行ったのが四時位であった。宇都宮の口に東照宮と書いた旗を立てているものがある。それで段々近寄って見ておるというとごく近くなってから向こうから小銃を撃ちだす。これは敵に違いないと思うから直ぐに進んで行って撃ったがその兵は直ぐに何処かへ逃げてしまった。
そして進んで行ってみると首の無い死体が沢山あったがそのままにして進んだ。それで宇都宮城内やその辺は敵兵が追撃に出たあとゆえ僅かの敵兵が残って居った。それでその日のうちに宇都宮を取り返した。
それはあとから聞いて分かったのだかなぜ薩州人の死骸が町の中に転がっておったかというと、最初に薩州の兵が壬生の方から城の際まで攻めて行ったそうです。その兵が城の堀際まで行ってどうしても入られぬだったどうです。そこを背後から敵に廻られた拍子に丁度それが御昼過ぎ頃でしょうか、もっと遅かったか身体を持って逃げることが出来ぬ位に壬生の方へずっと退軍した。その時に体を持って逃げる間合いがなかったから首を斬って持って逃げたということです。
それで暫時は城の方でも支えておったか、明神山の方へ廻ったのが長州隊で即ち二番中隊ですが、そうして殆ど彼らが危なくなったので、城の方と一緒に退いてしまったのです。なかなか盛んで夕方まで戦うてとうとうお宮の方から先へ落としてそれから城の方も皆落ちた。その時前に壬生の方へ追いかけて行った敵が戻ったけれども宇都宮の城が落ちてしまったから奥州の二本松日光の方へ逃げてしまった。
そうしてその晩はそこへ泊って二十日ばかりも宿陣しておった。それから賊軍が進んでくるという報があったから、閏四月十三日に一小隊を楢崎頼三が連れてその他薩州、大垣等の兵と一緒に大田原(おおたわら)の方へ行ったが我輩は二番五番の二分隊と宇都宮に残って居って後にいったのです。
白河の戦い
それから白河の攻撃だが、この攻撃をするのも各藩の隊長が集まって会議をしてやったものだ。四月二十五日は僅かな人数でしたが薩州の四番隊とそれから吾輩の二番中隊の小隊と原田良八の小隊それだけ行ってその他の兵は大田原に残って居ったように覚えます。
その時に黒羽藩の案内で薩州の四番小隊は半分であったかよく覚えぬが裏道から廻るつもりであったけれども吾輩の方は本道を蘆野から白坂へ行きました。無論白河を取るつもりでバラバラで行って白河のおよそ十町程手前で待ち合わせるという約束であった。
それで各々別れ別れにズンズン歩いて行きおったところがそこへ着いて待って居ると、何時でも先駆けに行く奴らばかりが十人あまり居った。それらがその日に限ってどうしても来ないのだ。それからこれは訝しい。どうも遅れるわけはない、先に行ったに違いないと思っておると先手の方に小銃の音が聞こえる。それ見たか彼らは先へ行ったのだ。
そこで急いで行ってみたところがもう敵の方では色々小さい木だの畳や何かで白河の入口に小さい台場のようなものを拵えて小銃の筒を揃えて出ている。で、なかなか行かれなかった。その入口というのは片方が水田で細井畦道で並木がある。敵は向こうの低い山に畳台場を立派に拵えて畦道へドンドン撃ちだすからどうしても行くことが出来ぬ。その山はよくこちらから見えているので一条道をよく防ぐことが出来るように拵えてあるからとうとう吾輩共は五分の四位の所まで行ったけれども弾丸が来て行かれぬ。
そうこうするうちに左の方の後ろの方へ廻られて撃ちだされた。これは初めは味方の者と思いしが敵であったのです。どうしても行かれぬので手前の山の所まで戻ってきました。ところで先に行った十四五人の者はズッと台場の下まで行ってすぐ台場の下にかがんで居った。
そうして吾輩共の行くのを待って居ったのだがなかなかこちらは行かれぬ。ほとんど五分の四位の所まで行ったけれども前からも横からも後ろからも撃たれるのでとうとう行かれぬでした。それで後へ退いた。その拍子に台場の下に居った奴も戻らなければならぬから咄嗟の間に決心をして運がよければ戻れるというつもりで台場の内へ不意に斬り込んでしまったのです。それに驚いて敵は逃げてしまった。そこで太鼓か何か分捕ってドンドン戻って来たか半分はその時に殺されてしまった。中にはどんなになったか分からぬ奴もあるのです。死んだのは鹿児島の者と長州の者と半分半分であったと思っておる。
それから吾輩共は退いて山の際で待って居った。ところがそ奴らが戻らぬからどうするかと言うておるところへ今のように斬り込んで逃げて戻った。そこで川村さんがずっと右裏の方へ幾人であったか四番小隊の内を連れて黒羽の隊を案内にして行ったが道が分からぬからもう仕舞際になって元の道へ戻って来た。あまりこの日は怪我人が多かった。戦の仕舞ったのはお昼少し前位でしたろう、あまり長くはなかったのです。
それから今度は蘆野まで戻ってとまりました。川村さんの隊もやはり一緒でした。二十五日に伊地知さんは今日は僅かな人数だから無理だろうと言うたが、川村さんが主にやれやれと言いだしたのだ。しかしどうしても取れぬものだったから伊地知さんもボツボツ小銃を撃っておったがとうとういかなんだ。
それから五月の一日に取ったというのは人数を増やして行ったのだ。白河では我々は二十五日にやり損なって閉口したのだ。最初四月二十五日に行って負けて戻ってそれから五月一日にまた行って取ったのだ。そしてこの白河を守って居るうちに敵は度々襲ってくる。その度毎に敵兵を追い散らして町に戻って休んで居った。
その内に敵もこちらの少人数ということを知って日に二三度も襲うて来る。その度毎に出て行き追い払っては見張を置いて宿に戻って居るという有様であったが殆ど毎日のように来る。而して宿から見張所までは一里余りもあるゆえやりきれぬから戻ることは止め皆見張所に居ることにしてついには台場の内側に風呂を拵えて風呂の中から番兵が見張をするというような具合で、何しろ人数が少ないから毎日毎日江戸の大村先生の方へ援兵を早く出してくださいと言っておるのだけれども、大村先生の方からは全体命ぜられたんでない、東山道の総督府から出ておったんだがこちらから命じたのではないから貴様達は死のうと生きようと勝手にせい、東京の方が治まったらやろうというので援兵も何も来てくれないから随分苦しかった。
話が前へ戻るが五月一日白坂を出たのが日の出位のことでしたろう、判然とは記憶しませぬが大砲が六門か八門ばかりございました。その時の砲兵は皆小銃を持って居りました。それでその砲兵は本道からただむやみにドンドン野砲を撃って進むような形をして進みはせんのである。
吾輩達が行った方面は湯本口で敵は会津の兵ばかりで中々強かったのです。どうも強くて退かぬのでとうとうこちらから無理に台場まで進んだのですがこの本道の方で沢山敵が死んだのです。七八百程、まあ八百ということをよく言われておりましたが、本当か嘘か分からぬが会津の方から退けと言われなければ退くことはならぬというようなことだったそうです。ところが退けということを通知する人が皆死んだから通知する人がないから右の様に沢山の人が死んでしまったということです。すなわち吾輩達が湯本口を取って後ろへ廻ったものだからどうすることもできぬようになった。それは町に沿うて裏のごく低い山で東京の愛宕山ほどもない位の小さい山の所でじきに越される所でありました。
それから話が前へ戻りますが、吾輩が向かった湯本口に敵も野砲を据えておりました。それから一寸十町位離れた真正面の所に屋敷が五六軒ばかりある村があって、ここへ出ると野砲を撃ちだすに違いないからというので一寸吾輩共がこの道へ出てみたら案の如く撃ちだした。その畑が出るとすぐ隠れてわざと発砲させてみたのです。ところが良い具合の所へきて弾丸が破裂したのです。それを撃たしておいてこちらは左の山へ登ってこちらの山と向こうの山の台場とで対戦をして、そのうちに二人五人六人というぐあいにむやみに行ってしまって向こうの台場へは一番先に長州の兵が十四五人も行きましたろうか、向こうの奴は中々逃げぬでとうとう皆死んでしまうまでやっておった。そして残らず敵兵の居らぬようになるまでは随分時間が掛かった。
会津戦争
二本松より若松を攻撃の話は他の者が既に話して居るはずであるから全て略すが、ただ吾輩が同地に向かった一番肝要な所を一言お話しておきます。それは大体総兵員を三つに割って野砲そのた主なる隊を中央より進め、向かって右方より二三小隊を進め、左方の間道を薩州の四番五番隊が進んで、会津国境の母成を攻落することになった。
そこで吾輩の行った方面のことだけを話しますが、吾輩はその右の方の僅かの隊の一人であって、そこは猿岩谷という所で、極深い険阻な所であるから、中々行くことができない。その内に一案を考え、その険阻な谷を長州兵二十人ばかりと土州兵同じく二十人ばかりとが、銃を背負い葛を伝い、非常に困難をしてその谷を渡って母成の横裏の仮台場の所へ出て行った。それを指揮した者は楢崎頼三である。それより我々その方面の者はその道を進んでいった。遂に母成台場の裏に出たゆえに敵は狼狽してこの会津国境の一番肝要な所が落ちたのであります。あとは他の者の話がありましょうから吾輩はこれだけにしておきます。



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