今回は江戸時代初期、実に28年もの歳月をかけて仇討ちを実行した「亀山の仇討ち」について紹介します。
事件の発生
信州小諸藩に250石取りの石井宇右衛門という武士がいましたが、寛文2年(1662)に藩主青山宗俊が大坂城代に任じられたのに伴い、子供たちも連れて大坂へ赴任します。
その際、近江で浪人をしていた赤堀遊閑という友人から、甥で養子にしていた赤堀源五右衛門を大坂で修行させてくれと頼まれ、宇右衛門は快く引き受け、大坂に呼び寄せ自分の元で武芸に励ませたのです。
宇右衛門の元で修行していた源五右衛門でしたが、少し腕が上がると、自分で門弟を集めて槍の指南を始めます。
宇右衛門はまだ未熟な源五右衛門に対し、
「まだ人に指南するのは早い。もう少し修行してからにせよ」
と諭すと、源五右衛門は立腹し、宇右衛門に勝負を挑んできたのでした。
高齢だった宇右衛門でしたが、仕方なく源五右衛門と試合をすると、宇右衛門が簡単に源五右衛門を打ち負かしたのです。
このことを恨みに思った源五右衛門は、延宝元年(1673)10月18日の夜、留守中の宇右衛門宅へ忍び入ります。
そして、宇右衛門の帰りを隠れて待ち構え、帰宅した宇右衛門を物陰から不意打ちで襲って殺害し、従者も斬り倒した上で逐電したのでした。
宇右衛門嫡男石井兵右衛門
宇右衛門が殺害された時、18歳だった嫡男三之丞は城勤めで出仕しており当日は留守にしていたのですが、父の死を知ると暇をもらい、弟の彦七郎とともにすぐに仇討ちの旅に出ます。
源五右衛門の親類宅など心当たりを探しますが、他国に逃げた源五右衛門はそう簡単に見つかりません。
たまりかねた三之丞はその年の冬、近江にいた源五右衛門の養父赤堀遊閑も全て事情は承知していただろうと討ち果たします。
源五右衛門が現れるのを期待してのことで、京都五条、伏見、大津に石井兄弟の名で
と記した札を立てますが、結局源五右衛門は現れません。
その後、石井兄弟は親戚に当たる美濃の犬養家に身を寄せ源五右衛門の行方を探し求めることとします。
しばらく後、彦七郎は犬養家と折り合いが悪くなり家を出て、それぞれ別に源五右衛門を探し求めていましたが、そのうち8年の歳月が流れました。
天和元年(1681)1月、犬養家で三之丞が1人で入浴中に、突如源五右衛門に襲われます。
必死に立ち向かいますが、不意打ちによる深手でついに絶命してしまうのです。
襲撃に気付いた犬養家の者達と斬り合いながら振り切り、源五右衛門はまた逃げおおせたます。
さらに、その後別に源五右衛門を追っていた彦七郎も海難事故に遭い亡くなってしまったのでした。
石井源蔵・半蔵兄弟
三之丞を討って安心した源五右衛門は、伯父に当たる伊勢亀山藩家臣の青木安右衛門の元に身を寄せていましたが、名を赤堀水之介と変え、安右衛門の推挙で150石を受けて亀山藩板倉家の家臣となります。
美濃での一件で、逆に武芸に秀でていると評価されたのです。更に安右衛門は主君に赤堀を狙う者がいると告げ、源五右衛門(水之介)は藩に守られるようになります。
藩士が他国の者に討たれることがあれば恥となりますので、源五右衛門(水之介)は城内の一角に屋敷を与えられ、他国からの者は城下に宿泊できないなど厳重に警戒されます。
一方、宇右衛門が亡くなった当時5歳、2歳と幼かった三男源蔵・四男半蔵は安芸の親戚の元で武芸の修練をしながら育ちましたが、源五右衛門が水之介と名を変え亀山藩士となっていることを知ると、天和2年(1682)、まだ15歳だった源蔵は周囲が止めるのを聞かず仇討ちに出発します。
亀山へ辿り着いた源蔵は、魚売りや鏡磨きなど様々な者に身をやつして城下に入りますが、宿泊することはできず、もちろん城内へ入ることもできませんので、源五右衛門(水之介)の様子もさっぱりつかめません。
昼間城内を眺めて堀際に佇んでいるのを怪しまれたこともあったといいます。
各地を転々としながら、亀山の様子を探りますが、結局源五右衛門(水之介)に辿り着くことはできず、2年後江戸にでます。
江戸の亀山藩邸に働き口を見つけてもぐりこもうとしたのですがうまくいかず、また亀山に戻ったり、伝手を探して各地を転々とするなど流浪の生活を送るようになります。そのような日々で源蔵は1日に15里歩いても平気になったといいます。
元禄元年(1688)、弟の半蔵も仇を討とうと広島を出て兄に合流しますが、やはり亀山ではどうすることもできず江戸に出てます。
日雇い人夫となって亀山藩邸に時折出入りしましたが、そこから先には進みませんでした。
さらに商人、浮浪者等様々な者に身を変えながら、情報を求めたり、亀山藩に繋がる伝手を探します。
そして元禄9年(1696)になり、ようやく江戸で半蔵が亀山藩士平井才右衛門の下働きとして奉公することができたのです。
その後、平井が亀山へ戻る時に半蔵も同行することになりますが、途中で平井が病死してしまい頓挫してしまいます。しかし半蔵は、別の亀山藩士の元へ奉公することができ、また機会を待つことにしたのです。
元禄11年(1698)11月、江戸にいた源蔵は、町奉行に仇討ちの届けを出します。当時の仇討ちの正当性の担保として事前の届け出が必要だったのです。
奉行からはなぜ今頃の届け出になったのかと問われますが、元々源蔵・半蔵兄弟は幼少であったこと、届け出を源五右衛門(水之介)が聞きつけて逃げるのをおそれたためと答え、奉行の了承を受けます。
その後源蔵も亀山で働き口を求めますが他国者を雇う所はなく、江戸に戻り何とか亀山藩士に奉公することができることになったのです。
その後、源蔵・半蔵ともにそれぞれ仕えていた藩士に従い亀山に移ることができ、連絡を取りあいます。また、半蔵は働きぶりが認められ仕えていた家の若党に取り立てられ、衣類と刀を与えられたのでした。
兄弟で源五右衛門(水之介)の情報を集めながら計画を練り、時は元禄14年(1701)5月になっていました。
邪魔が入り失敗すれば長年の苦労が水の泡です。用心深い源五右衛門(水之介)を狙う機会を慎重に探り、源五右衛門(水之介)が城の晩で宿直する日の帰りを狙うことに決めます。
いよいよ決行の日、2人は無事に落ちあい、二の丸外の石坂門付近で待ち構えます。
じっと待つ二人の目に、ついに従者を連れた源五右衛門(水之介)がやってくるのが映ったのです。
はやる気持ちを抑え、源五右衛門(水之介)が近づいてくるのを待ち、飛び出して2人で源五右衛門の前に立ちふさがります。
そして、
「我ら石井宇右衛門が倅共なり。我らが親、兄の仇覚えたるか」
と発すると、源蔵が抜討で源五右衛門(水之介)に斬りかかります。
源五右衛門(水之介)は刀の柄で必死に受け止めようとしますが源蔵の刃は眉間を斬りつけ、更に二の太刀を振るい、半蔵も合わせて斬りかかり、ついに源五右衛門(水之介)を仕留めたのでした。
兄弟は日頃から帯の中に入れ持ち歩いていた仇討ちの経緯を記した紙を倒れている源五右衛門(水之介)の袴に挟みます。
源五右衛門(水之介)の従者と駆け付けた門番から訳を尋ねられ、親と兄の仇を討ったと伝えると、従者らは呆然と立ち尽くし向かっては来ませんでした。
しかしすぐに亀山藩の侍たちが襲ってくるだろうと覚悟をします。長年の想いを晴らすことができた兄弟は
「もう思い残すことは無い、長年源五右衛門を守ってきた亀山藩の者達を相手に力が尽きるまで戦って死のう」
と覚悟していましたが、中々人が来ません。
そこで半蔵が、
「このまま城内で取り囲まれて討たれるより、城外まで出て追手と華々しく戦って討たれた方が、旅人などを通じて我らが仇討ちを果たしたことが一族も耳にできるかもしれない」
と思い立ち、兄弟は門番をごまかしてうまく城の外に出ますが、追手は来ません。
そのまま追手が来ないうちに城下を出て山を越え、ついには京に至ることができたのでした。
そこで各地の一族に仇討成就の文を出し、江戸に赴きます。江戸に着き町奉行に仇討ちの届け出すと、奉行から苦労を労われ、その後奉行所の各役人も祝われて2人に料理や酒まで出されたそうです。
連絡を受けた旧主青山家から、すぐに源蔵は宇右衛門の旧知250石、半蔵は新知150石を与えられて改めて召し抱えられることとなります。
その後兄弟は青山家中においても忠勤に励み、後に半蔵は病身のため暇をもらいますが、源蔵は青山家転封先の丹波亀山藩において寺社奉行や大目付などの重職を務めています。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
亀山仇討石井実記:石井源蔵覚書(中文館書店)
新着記事