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長崎喧嘩騒動~赤穂浪士討ち入りの直前にあった討ち入り事件

 長崎喧嘩騒動(深堀事件・深堀騒動・高木騒動)は、「忠臣蔵」で知られる元禄赤穂事件の2年前に長崎で発生した集団討ち入り事件です。

 赤穂浪士の討ち入りと共通点があることから、大石内蔵助が討ち入りの参考にしたとの伝承もあるこの事件について紹介していきます。

深堀鍋島家と長崎会所役人高木家

 今回関係するのは、深堀鍋島家と高木家です。

 深堀鍋島家は佐賀藩鍋島家の家老で、佐賀藩の飛地領である肥前国深堀領(現長崎市深堀町)6千石を領していました。

 深堀は長崎湾の入口に位置しており、佐賀藩が福岡藩と交代で行っていた長崎警護の任などにあたっていた家柄でした。

 一方の高木家ですが、当時の当主は高木彦右衛門といって長崎会所(貿易機関)の役人で、長崎で町年寄なども務め、町人階級とはいえ幕府から80俵を給され名字帯刀を許されていた町の有力者でした。

 彦右衛門は幕府に2万両の運上金(税)を納める代わりに代物替(しろものがえ)という貿易を行うことも認められており、多くの使用人を従え、長崎有数の勢力を誇った商家だったのです。

 また、当時の長崎は貿易港として栄え、人口は約6万5千人に及ぶ、大大名の城下町クラスの賑わいでした。

事件の発端

 発端となった出来事は元禄13年(1701)12月19日の昼、長崎の街中にある天満坂(大音寺坂)で起きます。

 この日、長崎では珍しい大雪の日でした。

 深堀鍋島家の家臣、深堀三右衛門(69歳)と、甥の志波原武右衛門(59歳)の2人がこの坂を通行していたところ、雪で足場が悪く三右衛門が石段でつまづいて倒れ、はねた泥が近くに居た又助という高木家の中間にかかってしまったのです。

 又助らは高木家の初孫宮参りの祝いの席の帰りで酔った状態でした。

 三右衛門らは詫びを入れたものの、又助らはこれを許さず口論となり、辱められたといいます。

 この時は近所の人間の仲裁で一旦収まったものの、その夜、長崎にあった深堀鍋島家の蔵屋敷に、その時の又助が高木家の仲間と共に押し寄せ、玄関にあった弓や鉄砲などの諸具を投げ散らかすなどの乱暴をし、さらには三右衛門らの刀まで奪い取って帰ったのです。

 町人といっても、長崎で絶大な勢力を誇り、幕府とも繋がりのある高木家と、深堀家臣の日頃からの仲の悪さも背景にあったともいわれています。

深堀家臣の討ち入り

 武士として耐えられない恥辱を受けた三右衛門と武右衛門は、死を覚悟して中間に深堀まで替えの刀を取りに行かせたのですが、知らせを聞いた深堀家臣らは激怒し、三右衛門の息子嘉右衛門(17歳)ら10名は高木家に討ち入る覚悟で深堀から長崎へ急行します。

 翌朝、今度は三右衛門と武右衛門が高木邸に行き、彦右衛門に対し、昨日の乱暴狼藉者の首級を渡すよう要求しますが、高木家側は相手にせず、その時の態度も無礼であったとされています。

 そこで三右衛門らは、応援の者達10名と合流し再度彦右衛門邸に押し寄せて討ち入ったのでした。

 高木彦右衛門も刀を手に取り応戦してきましたが、すぐに斬り捨てて首を取ります。

 高木邸にいた用心棒の侍3人と中間2人もしばらく戦ったのちに討ち取られ、その他80人余りいた使用人たちは逃げ出したそうです。

 深堀からは更に後続の応援9人も駆けつけましたが、すでに彦右衛門を討ち取った後でした。

 なお討ち入りに際しては、門内に侵入すると、外からの加勢を防ぎ内からの逃亡をさせないために再び門を閉め裏口も固め、屋敷に準備してあった弓の弦は切断したといわれます。また、火事を起こさないよう火の始末までしたとも。

 討ち入りが終わると、騒動の責任を取り、三右衛門は高木邸の玄関において切腹し、武右衛門は帰り道の橋の上で切腹したのでした。

討ち入りの裁決

 討ち入り後、関係した深堀家臣は蔵屋敷に預け置かれ、彦右衛門家来は入牢が言い渡されます。

 長崎奉行は幕府に伺いを立て、3カ月後の元禄14年3月に幕府の裁定が決定します。

・三右衛門と武右衛門と共に高木邸に討ち入った17歳の嘉右衛門を含む10名は切腹

・その後応援に駆け付けた9名は五島へ遠島

・深堀鍋島家の当主鍋島茂久は当時佐賀に居り深堀を不在にしていたためお構いなし

・深堀蔵屋敷に押し掛けた高木家家来の残り8名は死罪

・高木彦右衛門の子彦八は家財没収の上長崎から追放、江戸・大坂・京への居住禁止

となり、比較的深堀側に好意的なものとなりました。

 五島列島へ流された9名は、当地の五島藩に手厚く処遇されたようで、7名は現地で妻帯しています。

 9年後の宝永6年(1709)に綱吉が亡くなったことによる恩赦で深堀へ戻ることができましたが、流刑先で妻帯していたことが公となると当人たちはおろか、深堀鍋島家や鍋島本藩、五島藩にも迷惑をかけることになるため、彼らは妻子を五島に残して深堀へ帰還したそうです。

 深堀家臣たちの討ち入り手順を、のちの元禄赤穂事件の赤穂浪士たちが参考にしたとする伝承がありますが、真偽は明らかではありません。

 しかしこの事件は全国で話題になっており、赤穂浪士たちも事件のことは認識していたでしょう。

 ちなみに、深堀鍋島家は、テレビドラマでも取り上げられた端島(軍艦島)を領有しており、明治初期に炭鉱の操業に着手しましたが、明治23年(1890)に深堀鍋島家が三菱へ売り渡しています。

【主要参考文献】
長崎畧史(金井俊行編:長崎市)