江戸幕府において、幕閣の中心において政治を動かした権力者たち。
絶大な権力を振るった彼らですが、その末路はどうなったのでしょうか?
8名の人物について、それぞれの晩年について紹介していきます。
大久保長安
大久保長安は元は武田信玄に仕えていた猿楽師で、武田家滅亡後に家康に仕えた後は直轄領の代官や各地の鉱山開発を任されて徳川家に莫大な富をもたらします。
その権勢から「天下の総代官」と称され、慶長8年(1603)に幕府が開かれると年寄(後の老中)にまで昇りつめたのです。
慶長18年(1613)に病死しますが、遺産を巡って長安の子と多数いた愛妾たちが揉め、そのことが発端となり不正蓄財を咎められます。
家康は長安の子供らに対して、各地の鉱山での収支を明らかにするよう命じますが、子供らは「長安に賜った大久保家の領地ではないのですか」などといい、家康が激怒したといいます。
家康が収支を明らかにさせようとすると、子供らは「若輩者ゆえ報告できません」と・・・
結果、長安一族はお取り潰しとなり財産は全て没収され、長安の遺体はわざわざ墓から暴かれて磔にかけられて、長男藤十郎ほか子供らはことごとく死罪を命じられてしまったのです。

本多正純
本多上野介正純は、家康の寵臣であった本多正信の嫡男で、父親譲りの才覚を発揮し自身も家康の最側近として初期の幕府政治を動かしていました。
徳川家中での政敵であった当時の武功派中心人物である大久保忠隣を失脚に追い込むなどして着実に地位を固めていったのですが、家康の死後は秀忠から疎んじられるようになります。
元和8年(1622)、将軍秀忠は家康が祀られる日光に参詣した帰り、正純の宇都宮城に宿泊することになっていましたが、急遽予定を変更し別ルートで江戸に帰っています。
これは家康の長女で前宇都宮藩主の祖母である亀姫が、弟である秀忠に対し、「宇都宮城で秀忠を害する企てがある」と密告したためだといわれ、「宇都宮釣り天井事件」といわれる騒動です。
幕府側が宇都宮城を調べても釣り天井など秀忠を暗殺する仕掛けはなかったものの、その他のことが問題視されました。
加増により不足した鉄砲の入手や秀忠を迎えるための本丸工事が無断であったなどであり、言いがかりのような内容です。
正純は釈明するも、幕閣は政敵だらけで元から結論は決まっていたのでしょう。結局本多家は改易され、正純は出羽に流されることとなります。
なお、当初は宇都宮15万石の代わりに5万石を与えられるはずだったのが、正純が、
「罪があり15万石を没収するというならば5万石も与えられるのはおかしい」
と意地を貫いたため、秀忠が激怒し出羽に流されることになったともいわれます。
正純は冤罪であり本多家を追い落とす謀略だったといわれますが、自分が得意としていた謀略で逆に改易された皮肉な結末となりました。
なお、出羽での逸話ですが、領主の佐竹家が正純に同情し、配流の身といえども厚くもてなしていたそうですが、ある日正純が、
「関ヶ原の後に家康公は、『佐竹家はそもそも敵対していたものではなかったから常陸の本領80万石から領地を半分削る程度にしよう』といわれたが、それがしが、『それでは多すぎます、出羽20万石にすべき』と固く申し上げたため出羽に減封となった。こんなことなら家康公のいうとおりにしておけばよかったわ」
と笑いながら言ったそうです。
さすがに佐竹家も気を悪くしたでしょう、この言葉は幕府に伝えられ、幕府からは
「配流の身で天下の御政道のことを口外するとはもってのほか。正純のことは厳重に扱え」
との命が佐竹家に下され、正純の住居は四方を柵で囲まれ、部屋も明かり取りの窓以外は封鎖されてしまったとされています。逸話の真偽は不明ですが、実際に厳しく扱われることになったようです。
正純は許されることのないまま、そのまま出羽でこの世を去りました。

酒井忠清
三河以来の譜代名門酒井雅楽頭家嫡流で、四代将軍家綱時代の寛文6年(1666)に大老となり、その権勢が強大であったことと、屋敷地が江戸城大手門外の下馬札前にあったことから、後に「下馬将軍」と称されました。
しかし、延宝8年(1680)、忠清を信任していた四代将軍家綱が危篤に陥ります。このとき忠清は、鎌倉時代の例に倣って徳川家とは縁続きである有栖川宮幸仁(ゆきひと)親王を宮将軍として擁立しようとしたものの、これは徳川光圀、堀田正俊などの反対にあい、実現しなかったとされています。
家綱死後、五代将軍綱吉が就任すると、すぐに忠清には病気療養を命じられ、大老職を解任されます。そして翌延宝9年(1681)2月に隠居すると、失意のうちに5月には死去してしまったのです。
忠清は解任からわずか1年後に突如没したため、綱吉は自殺ではないかと疑問を抱き、「墓を掘り起こせ」と命じるまでに執拗に何度も検死を求めたものの、結局実現しなかったとの伝承もあります。
堀田正俊
綱吉の五代将軍就任に尽力し、酒井忠清が取り上げられた下馬札前の屋敷を与えられたのが堀田正俊です。
天和元年(1681)には大老に任じられ、「天和の知」と呼ばれる政治を執り行い絶大な権力を振るいます。
しかし、貞享元年(1684)8月、江戸城中で、親族で若年寄であった稲葉正休(まさのり)に突然襲われます。
正休は、要件があると御坊主を大老の部屋にやり、出てきた正俊にスッと近づくと突然脇差を抜いて、正俊の脇腹に突き立てたのです。
「正休、狂ったか!」
との正俊の叫び声で、付近にいた老中、若年寄たちが異変に気付いて駆け寄り、即座に正休に斬りかかります。
正休はズタズタに斬られながらも正俊を離さずに絶命したのでした。正俊もその日のうちに自邸で息を引き取ります。正俊は即死だったものの「殿中での死」を避けるための方便ともいわれています。
理由については様々な説がありますが、正俊の権勢を恐れた綱吉の内意を含んでの行為であるとか、正休の自発的な行為であるとか、正休が任せられた淀川改修工事の見積もりが高すぎて採用されなかったことに対する恨みであるともいわれます。
なお、諸大名が堀田家に弔問に行く中、一人水戸光圀は稲葉家に弔問に訪れ、正休の老母に対して「正休は一命を捨てての御奉公をした」と慰めたといわれており、少なくとも光圀はそのような理由だと認識していたのでしょう。

柳沢吉保
柳沢吉保は武田遺臣の家の出で、五代将軍綱吉が館林藩主であった時代から仕えて将軍就任に伴い幕臣となります。
そして出世を重ね、元禄元年(1688)にはついに1万2千石を与えられ大名になるとともに将軍側近の側用人に任じられます。
その後も出世と加増は続き、最終的には老中上座の大老格とまでなり、甲府15万石を領して権勢を振るい、柳沢邸には請願などに訪れる客があとを絶ちませんでした。
しかし、宝永6年(1709)2月に綱吉が死去すると、同年5月には隠居を願い出て隠居後は江戸駒込で過ごします。
そして、六義園の造営を行うなど悠々自適の生活を送り、正徳4年(1714)に死去しています。
他の権力者と異なり権力にしがみ付くことなく、鮮やかな引き際だったのではないでしょうか。
田沼意次
数々の幕政改革を手がけ、政治権力を持っていた意次でしたが、天明4年(1784)、若年寄を勤めていた長男・田沼意知が江戸城内で旗本・佐野政言に暗殺されるという事件が起きます。このことが契機となって意次の権勢が衰え始めます。
さらに天明6年(1786)8月25日、意次の後ろ盾だった将軍家治が死去しました。
家治の死の直後、意次は一橋治斉と松平定信を中心とする反田沼派により老中を解任させられ、2万石を没収され、江戸上屋敷の明け渡しも命じられました。
その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封で3万7000石を没収されて、意次が建てた相良城は打ち壊されます。
長男の意知はすでに暗殺され、他の男子は全て養子に出されていたため、孫の龍助意明(意知の子)に陸奥下村1万石を改めて与えられ、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許されました。
元々新規召し抱えばかりであった田沼家臣団の多くは、退職金代わりの金子をもらうと離散していったといいます。
また、田沼家の子女と縁組していた各家の多くは縁組を解消したそうです。
それから2年後の天明8年(1788)6月24日、意次は江戸で失意のうちに死去しました(享年70歳)。
なお、意明に与えられた1万石の地の実高は半分にも満たなかったそうで、意次の死から間もない天明8年9月には、幕府から意明に対し莫大な費用のかかる河川工事が命じられ、田沼家の蓄財は無くなってしまったといいます。

松平定信
八代将軍吉宗の孫として御三卿田安徳川家に生まれ、白河藩主松平家を継ぎ、田沼意次失脚後、老中首座、将軍補佐として寛政の改革を主導します。
しかし、改革を行ってわずか6年で、定信は老中首座と将軍補佐の職を辞任しています。これは、改革に対する各方面からの批判や、朝廷と対立した「尊号一件」が原因といわれています。
35歳の若さで老中を退くことになった定信は、白河藩主として領国経営に専念することになります。白河藩主としての評価は、江戸時代の名君の一人として高いです。
寛政12年(1800)には、文献から白河神社が建っている場所が「白河の関」であると考証しています。これは、実際に昭和41年(1966)に、文化庁の調査により国指定史跡「白河関跡」に指定されました。
55歳で白河藩主を隠退したあとは、住居を江戸築地の藩邸下屋敷「浴恩園」に移し、自ら「楽翁」または「花月翁」と称しました。老中を退いてから20年以上経っていましたが、助言を求める来訪者が跡を絶たなかったといわれています。
また、白河藩に日本最古の公園といわれる南湖公園を造っています。この公園は、身分の差に関係なく、いつでも誰でも訪れることのできる「士民共楽」の理念のもとに造られました。
文政12年(1829)3月21日に江戸で「己丑(きちゅう)の大火」とよばれる火事が起こりました。多数の建物が焼失し、2800余人の焼死者が出たといわれています。
この火事で松平家の上屋敷、中屋敷、定信が17年かけて造った下屋敷の「浴恩園」も焼けてしまったため、定信は同族の伊予松山藩の中屋敷に移り住みました。
そして、火事の前から体調を崩していた定信は、この仮屋敷の中で同年5月13日に享年72歳で亡くなりました。
老中筆頭・将軍補佐までなった人の最期としては、少し寂しい感じがしますが、仮屋敷で家臣たちと歌会を開いたりしていたそうで、最期まで人生を楽しんでいたようです。

水野忠邦
譜代の名門に生まれ、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶のもと、天保5年(1834)に老中、同10年(1839)に老中首座に任ぜられ、天保の改革を主導します。
天保14年(1843)9月に、江戸・大坂周辺を幕府直轄領とする上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居耀蔵が上知令反対派の老中・土井利位に寝返って機密文書を渡すなどしたため、老中を罷免されて失脚してしまったのです。
改革はあまりに過激で庶民の怨みを買っていたとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民から自邸を投石されるなどの襲撃を受け、「ふる石や瓦とびこむ水の(水野)家」と川柳に詠まれています。
翌弘化元年(1844)6月に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任しました。
忠邦は、裏切った鳥居を罷免するなど報復をしますが、情熱を失っており、病気を理由としてたびたび欠勤し、8カ月後には辞任します。
その後、忠邦に対しても天保改革時代の鳥居らの疑獄事件への関与を疑われ、弘化2年(1845)9月、2万石を没収されて5万石となり、家督は長男・水野忠精に継ぐことを許された上で強制隠居・謹慎が命じられます。
さらに、水野家は浜松から山形への転封を命じられています。
忠邦は嘉永4年(1851)2月に死去しますが、死後にようやく謹慎が解かれたのです。
まとめ
今回主な権力者の晩年を紹介しました。
有名な井伊直弼は省きましたが、権力者の多くは皮肉にも悲惨・寂しい末路を迎えていたようですね。
新着記事