上杉謙信は生涯不犯で妻を持たなかったといわれていますが、その謎、理由については昔から様々な説が伝えられていますので紹介します。
身体的に不能であった?
若い頃の怪我若しくは病気(淋毒)が原因で不能になったため(>_<)妻帯しなかったとの説があります。しかし根拠があるわけではなく、あくまで想像の域を出ない説でしょう。
跡目争いを避けるため?
当時兄弟間の跡目争いは多く、謙信自身も兄晴景との争いを経験していることから子を持たないために妻帯しなかったとする説です。しかし子を持たなかったとすると跡目争いは余計にややこしくなるはずなので(実際に謙信の跡目争いでは養子の景勝、景虎間で争っています「御館の乱」)、これは理由ではないでしょう。
実は妻を持とうとしていた!?
謙信には親しい関係となろうとした女性が少なくとも3人いたといわれます。重臣直江実綱の娘、関白近衛前嗣の妹絶姫、上野国平井城主千葉采女の娘伊勢姫です。
直江実綱の娘は謙信の身の回りの世話をしており、近衛前嗣の娘は謙信が上洛した際に縁談の話になったそうですが、二人とも若死しているようです。
伊勢姫については元々敵の娘で人質として送られてきた際に美貌に心奪われた謙信が妻にしようとしたところ、重臣の柿崎景家に止められたとされています。
いずれも結果として結ばれることはなかったことから謙信の心に傷を残し、妻を持つことをしなかったとするものです(ノД`)・゜・。
謙信は女性だった??
繊細な性格、着物の形態、当時の肖像画に髭がない、月1回お腹が痛くなっていたとの伝説などからくる説です。
さすがに史実とはいえないでしょうが、物語の題材としてとても面白いですね(^_^)
男色家だった?
謙信が京に上洛した際における公家の書状の中に、謙信は男色(衆道)を好んでいたとも読み取れるものがあり、また若い小姓を集めていたともいわれますが、戦国時代の男色は一般的であり男色だったからといって妻帯しない理由にはなりません。
直江兼続は謙信の寵童であったとする説もありますが、兼続が仕えていたのは景勝であり俗説でしょう。
独自の人生観、信仰のため
謙信は幼い頃寺で育ち、母虎御前の影響で真言宗を深く信じ信仰心厚かったといわれています。
繊細かつ潔癖な精神の持ち主で独自の人生観を持ち、27歳で俗世と決別し出家して引退しようとしており、既に仏僧のつもりで女性と肉食を断っていたといわれます。
性欲だけの話ではなく領土欲も持たなかったことから、やはりこれが真実に近いのではないでしょうか。
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