明智光秀が「本能寺の変」で織田信長に謀反を起こした理由については、さまざまな説が存在します。
その中の一つに、光秀が徳川家康の接待役を務めた時に、腐った魚を料理に出したことで信長から激しい折檻を受けて、それを恨んでいたためという説があります。大河ドラマや時代劇でもたびたび登場するこの話は本当なのでしょうか。
川角太閤記での記述
まず、この話は当時の一次史料にはどこにも書かれていません。これと似た有名な話が『川角太閤記』にありますので紹介します。
『川角太閤記』とは、田中吉政(豊臣政権の大名)に仕えた近江出身の川角三郎右衛門が、豊臣秀吉と同時代に生きた武士たちの「聞書」を元に書かれたとされています。『太閤記』のなかでは比較的、史料価値が高いとされてきましたが、最近では信憑性に疑問をもたれています。
以下に『川角太閤記』より引用
家康と穴山梅雪一行は、光秀の屋敷を宿とする予定であった。そのため、信長は光秀の屋敷へ、宴会で出される料理の状況を確認しに訪問した。
しかし、夏で暑かったためか、生魚の傷んだ匂いが門前まで漂っていた。
これに怒った信長は台所へ行き、このような状況では家康を接待することなどできないと言い、光秀の饗応役を解任し、家康一行の宿舎も明智光秀邸から、堀久太郎邸へ変更させた。
信長記には家康の宿は大宝坊とされている。面目を失った光秀は、用意した料理を器ごと堀に捨てたため、安土城下中に悪臭が漂ったといわれている。
まず違うのが、家康を接待している最中ではなく、事前に信長が訪れた際の出来事ということです。それに、接待役を解任され、宿舎が変えさせられたのみで、信長から激しい折檻を受けたとはどこにも書かれていません。
そして、この『川角太閤記』自体の記述も不自然な点が目立ちます。まず、門前にまで悪臭が漂っているのに、光秀ほどの有能な人物がほったらかしにしていたとは考えられません。さらに、用意した料理を堀に捨てるなど、あまりにもあり得ない話です。
信長公記での記述
信長の事蹟に関して信頼性が高い『信長公記』には、「五月十五日、家康公、ばんば(番場)を御立ちなされ、安土に至って御参着。御宿大宝坊然るべきの由、上意にて御振舞の事、惟任日向守に仰付られ、京都堺にて珍物を調へ、生便敷(おびただしき)結構にて十五日より十七日まで三日の御事なり」との記述があります。
ここでは、「光秀は京都・堺から珍しい物を取り寄せて、15日から17日までの3日間、家康をもてなした」と書かれているのです。光秀が折檻を受けたどころか、腐った魚の件も出てきません。もしも、料理に不手際があったのなら、少しはそれについて触れているはずです。
まとめ~折檻はあったのか?
・信長が家康の面前で光秀を折檻したという一次史料は存在しない。
・『川角太閤記』の記述は信長が料理の下見をしにきた時のことである。
・『川角太閤記』の記述も不自然な点が目立つ。
・そもそも『川角太閤記』は秀吉の伝記であり、信憑性に欠ける。
・信頼性が高い『信長公記』には腐った魚の話が出てこない。
・『信長公記』では光秀は珍しい物を取り寄せ家康を接待したと書かれている。
以上のことから、家康の面前で信長から折檻を受けたという話はもとより、信長が光秀の屋敷を訪れ、接待役を解任したという事実もないといえます。それどころか、『信長公記』によると光秀はつつがなく接待役を務め上げています。
この話は、「本能寺の変」の半月前のことなので、光秀怨恨説を信じた後世の人々が、謀反の動機に結びつけるために作り上げた創作といえるのではないでしょうか。
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