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江戸・大名の生活~田沼屋敷の女相撲

 田沼意次・意知父子は過去賄賂政治家として有名でしたが、経済に明るい開明派として近年功績が見直されていますね。

 しかし私生活はやっぱり派手だったようで(>_<)、父子ともに豪勢な逸話を残しており、今回は子の田沼意知の話です。

 意知が奏者番から若年寄になろうとした権勢盛んな天明2年(1782)、築地に新邸を与えられました。

 年配者ならば立派な庭を造作したり趣のある物を集めたりしたのでしょうが、意知はまだ30代でしたのでそれでは飽き足らず新たな遊興を始めたのです。

 その頃江戸では回向院の相撲が人気を博していましたので影響を受けたのでしょう、新たな遊びとは・・・・

 夏に大広間にビロードの布団を敷き詰め、ちりめん細工の土俵を仕立て、屋敷の美しい女中達を素裸にして廻しだけを締めさせて華やかな相撲取りに仕立て上げ相撲を取らせたのでした。

 本物の相撲取りのようにはできませんが、勝った者には褒美に紅白の縮緬を与え、負けても愛嬌のある面白い相撲をした者には大層な褒美を与えたので、本物の取り組みよりかえって白熱した珍勝負が繰り広げられたといいます。

 この女相撲のため、夏の夜の田沼屋敷からは男女の大きな歓声や笑い声が響いていたそうです。

 意知も父と同じく世情、経済に通じた有能な人でしたが、この驕り高ぶった豪奢な生活は周囲の反感を買い、天明4年には江戸城内で刺殺されて田沼屋敷の歓声も終わりを告げたのでした・・・


稲葉正休と堀田正俊と虎徹~江戸城刺殺事件
貞享元年(1684)、江戸城中で若年寄稲葉正休(まさのり)が大老堀田正俊を刺殺する大事件が起こります。


江戸の女武者~大名屋敷の女別式
江戸中期、大名屋敷の奥向(私邸空間)には「女別式」と呼ばれる女武者がいました。

参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
「お大名の話」(三田村鳶魚著:雄山閣)