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江戸城大奥に関する雑学~実際の大奥はどうだったのか!?

 江戸時代、江戸城大奥の事に関して庶民が様々な憶測を立て話のネタにはなっていたものの、働いていた女中からも口外されることなく、実態は謎に包まれていました。

 今回は、実際に働いていた女中たちが、明治になってようやく明らかにしたその実態について紹介していきます。

江戸城本丸の構造

 江戸城の天守閣脇にあった本丸御殿は、天守がなくなった後、名実ともに江戸城の中心であり続けました。

 御殿は御表(おおもて)、中奥(なかおく)、大奥(おおおく)に分かれており、御表は政治を行う公式の場、中奥は将軍公邸、大奥は将軍私邸といったイメージになりますが、中奥と大奥の間の御錠口の杉戸を境に、大奥は男子禁制の場となっていたのです。

大奥への出入り

 中奥から大奥への出入り口に当たるお鈴廊下は、上(かみ)のお鈴廊下と下(しも)のお鈴廊下の2か所がありましたが、普段使うのは上のお鈴廊下で、下の方は非常口でした。

 大奥と中奥を自由に行き来できる男は将軍だけでしたが、逆に大奥に住む女性も、中奥へ自由に行くことはできませんでした。将軍御台所でさえ、御表に出ることは生涯一度の「御表拝見」のときのみであったといいます。

 ただし、大奥に3、4人いた御伽坊主という女性のみ、御表や中奥に出入りすることができました。この御伽坊主という女性は髪を剃った坊主頭で、男性の羽織を着ていたそうです。ちなみに御表にいた男性の坊主は大奥に来ることはできませんでした。

 なお、中奥との出入り口である御錠口とは別に、「七つ口」と呼ばれる外部との出入り口があり、女中たちは全てここから出入りしていました。

 伊賀者などが警備を務め、「江島生島事件」を機に秤が置かれ、搬出入する長持などの「貫目吟味」が行われることになりました。

 計量は形式的なものであったようですが、天保7年(1836)に実際に検査したところ、女中が長持に隠れ無断外出していたことが判明したそうです(>_<)

将軍の居所

 将軍の普段の居所、寝所は中奥であり、大奥へは通う形でした。大奥における将軍の居所である御小座敷は、御鈴廊下のすぐ脇のところで数部屋ありました。

 大奥の奥には御台所の御座所がありますが、将軍がそこまで入っていっていたのではなく、御小座敷の方に御台所らが来ていたのです。

大奥の住人たち

 本丸大奥には、将軍正室である御台所を中心に、数百人の女性たちが住んでいました。

 なお、前将軍や将軍世子らが住む西の丸や二の丸にも奥があり、そこでは大御台所(前将軍夫人)や御簾中(世子夫人)が中心となった生活が営まれていたのです。

 西の丸は本丸より若干規模が小さいだけで、基本的な構造は本丸と同じだったようです。(本丸は約14万7300坪、西の丸は約12万5000坪)

 女中たちは、上臈年寄(御台所についてきた公家の娘)を筆頭に、実際大奥を取り仕切っていた御年寄、将軍や御台所の身辺の世話をする中臈など、細かく身分や役割が定められていました。

 実際の御付きの者の人数例については、時期によって異なり、将軍御付きが170人、13代家定生母の本寿院は53人、夫人の天璋院は73人、14代家茂生母の実成院は22人、夫人の和宮は57人であったそうですが、更にそれぞれの女中の下女なども入れると数百人(千人近く)の女の世界となっていたのです。

住まいは?

 殆どの女中が長局(2階建て長屋のようなもの)に相部屋で暮らし、自分の部屋を持てるのは筆頭中臈以上でした。

 将軍御手付きで中臈になった者も、世継ぎを生むことができて初めて部屋を持つことができたそうです。

御年寄とは?

 表の老中に当たるのが御年寄(おとしより)で、大奥の取締に当たりました。

 形式的には御年寄の上の上臈年寄がいましたが、京から御台所についてきた公家の娘で、実質的な権力はなかったといいます。

 御台所の将軍墓所の両山(芝増上寺、上野寛永寺)への参詣は、御年寄が代参するのが通例で、大奥最大の事件といわれる「江島生島事件」も、御年寄であった江島の代参が舞台となっていました。

 ちなみに、御年寄は煙草盆の前に座ったまま動くことなく、その場であれこれの指示を出していたそうです(>_<)

 長局では、御年寄だと広い所で約10部屋70数畳分の広さが割り当てられ、局1人、側6人、タモン(炊事の下女)4人、ゴサイ2人の使用人がおり、湯殿も2つありました。

 ゴサイというのは、毎日通ってくる男の使用人で、買い物や使いなど、外での用を務めていたそうです。御門札という通行札で大奥へ通行しており、御用町人もこの御門札で大奥へ出入りしていたといいます。

 男禁制の大奥も、ゴサイや御用町人のように一部の区域まで(御広座敷まで)は男の出入りもあったのです。

 外出の際は、部屋に万力で釣ってある駕籠をおろして使用し、供廻りの数は少ないけれど、10万石の格式であったといわれています。

部屋子とお犬子供

 高級女中には部屋子とお犬子供というのが付いていましたが、部屋子はその女中の親戚の子など、将来跡を継ぐために置いている娘でお嬢様と呼ばれており、お犬子供というのは見習いの使用人で、残り物ばかり食べていたのでお犬と呼ばれていたそうです。

 女主人はお犬子供の姿が見えない時は廊下に出て「来やれ!」と叫んで呼んだといいます。

御手付中臈とは

 将軍(御台所)の身の回りの世話をするのは御中臈でしたが、御中臈は2種類いました。将軍の手が付いていないお清の御中臈と、手が付いた御手付御中臈です。

 中臈より低い身分であった女中も、御手付になると中臈になりました。なお、御手付となっても、自分の部屋は与えられず相部屋暮らしでした。

 世継ぎを生むと、部屋を与えられ姫君扱いとなり、一族も取り立てられます。更にその子が将軍になると将軍生母として栄華を極めることになります。

 しかし、御手付もいいことばかりではありません。世継ぎを生まなくても、御手付はもはや他の男性に嫁ぐこともできず、病気の際の宿下がりも許されず、一生親元に帰ることはできませんでした。

 将軍が亡くなっても同じで、一生「御殿の置物」となって暮らしていったのです。

大奥の風紀

 江戸初期は大奥と中奥の区別は厳重ではなく、女中たちも御表まで出てきていたようですが、時代が下るにつれて厳しくなっていきました。

 8代将軍吉宗のときには外部との接触を厳しく制限する規定がほぼ定まっており、幕末まで続いています。

 手紙を出したり面会することができる親族の範囲や、生活上の決まりなど細かく規定されていました。

 なお、代々の将軍御台所は皇室や公家から迎えており、特に6代家宣の御台所近衛煕子のときに家宣の意向もあり公家の風習が大幅に導入され、大奥は武家と京の文化が混じった独特の空間が形成されていたのです。

大奥の怪談

 御殿内でも、夜は寂しく、所々に金網灯篭がぼんやりと照らしているだけで、明るい所はなく薄暗い中を通ったといいます。

 大奥には怪談が伝わっており、仏間近くにある宇治の間という部屋は、その昔5代将軍綱吉が御台所鷹司信子により殺害されたとの伝説があり、普段は誰も使用していなかったそうです。

 にもかかわらず、建て直しの際も同じように部屋が作られ、しかも使用しなかったと。

 12代将軍家慶はこの部屋の前で見知らぬ黒の紋付を着た老女を目にし、それから間もなく亡くなったといわれています。

新参舞い?

 大奥には年越しに皆が踊り騒ぎ、新参の女中は裸になって踊る新参舞いというものがあったともいわれますが、実際に大奥で働いていた人からは否定されています。

 ただ、入れ墨の有無を確認するために行っていたとの話もあり、実際に無かったのか、名誉のために無かったことにしているのかは分かりません。

御台所の一日

御台所の日課を簡単に紹介しますと、

・朝7時に起床
・うがいをしお歯黒をつける
・風呂に入る
(将軍の奥泊りがあるときは夕方と翌朝に入る)
・8時に髪を整えながら朝食
・着替える
・10時に将軍総触れ(将軍は奥泊りの日も、翌朝一旦中奥に帰って10時に来る
・仏前に礼拝
・昼の召替え
・12時に昼食
・午後は机に向かい本を読んだり自由
・14時に将軍御成り
・20時に将軍御成り
(奥泊でない日はまた中奥に帰る)
・21時に就寝

との流れであったそうです。毎日この繰り返しのみでは窮屈そうですね(>_<)

将軍・御台所の話し言葉

 将軍は自分のことを、「こちら」や「自分」と呼び、「こちらは~だ」といった感じで、御台所は自分のことを「わたくし」と呼び、「わたくしは~じゃ」といった言葉遣いだったそうです。

【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
青蛙房)
雄山閣)

徳川家治と倫子(ともこ)〜史実の夫婦仲はどうだった?側室はいたの?
ドラマ「大奥」で描かれる、五十宮倫子と、その夫で江戸幕府第10代将軍となった徳川家治との実際の関係について紹介します。