榊原康政の生涯
榊原康政はいわゆる徳川四天王の一人です。天文17年(1548)、三河の武将榊原長政の次男として生まれます。康政には、清政という兄がいましたが病弱だったため、康政が榊原家の家督を相続したといわれています。
13歳の時に家康に見い出され小姓となり、16歳の時に一向一揆の争乱で初陣して以来、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど数々の戦で活躍し家臣団の中で頭角を現してきました。
同じ徳川四天王の本多忠勝とは仲が良く、共に家康の側近として本能寺の変後の伊賀越えにも同道しています。
小牧・長久手の戦い
康政の名を天下に知らしめたのが小牧・長久手の戦いです。
康政は、秀吉の甥秀次らの軍を打ち破るだけでなく、織田家に取って代わろうとする秀吉を大逆無道と激しく非難する激文を諸軍に触れ回しました。
秀吉は激怒し、康政を打ち取ったものは思いのままの褒美を出すと宣言しましたが、逆に徳川の一家臣が秀吉と渡り合ったこととなり、康政の名を上げることになったのでした。
なお、合戦後は逆にその度胸を秀吉に気に入られ、秀吉のはからいで従五位下式部大輔に叙任しています。
館林10万石の大名へ
天正18年(1590)の家康関東入国に際しては、井伊直政の12万石に次いで多い館林10万石を与えられました(10万石は康政と本多忠勝のみです)。
関ヶ原の戦いにおいては、軍監として本多正信らと共に秀忠軍に従軍し、合戦に遅参した秀忠を家康にとりなしたと言われています。家康やその子秀忠から厚い信頼を得ていましたが、慶長11年(1606)に死去しています。
康政は本多忠勝と共に徳川家臣の武功派重鎮として重きをなしていましたが、晩年は正信ら文治派が重用されることに憤慨し、正信のことを「算盤勘定しか知らぬ腸腐れ者」と呼んで軽蔑していたといいます(>_<)
榊原家のその後(康政の子孫)
江戸時代を通じて姫路や越後高田の藩主として、途中相続危機や不祥事もありましたが、榊原康政の子孫ということで改易させられることもなく幕末まで続きました。
なお、慶応2年(1868)の第二次長州征討では、同じく徳川四天王の子孫である井伊家の彦根藩と共に芸州口で先鋒を任されましたが、戦国以来の伝統的な備えの両軍は最新鋭の銃や戦術を駆使する長州軍に散々に打ち負かされ敗北しています。
その後、戊辰戦争では官軍側に立ち旧幕府側と戦い維新を迎えています。
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