井伊直政の生涯
井伊直政は徳川四天王の一人に数えられる家康の重臣です。しかし他の三人と違うのは井伊家は元々は今川家の家臣で、遠江国井伊谷の領主でした。
直政の父直親は桶狭間の戦い後の永禄5年(1562)に謀反の疑いで今川氏真に誅殺されています。その後は大河ドラマ(おんな城主直虎)にもなった井伊直虎が井伊家の家督を継ぎ、直政を育てます。
直政は天正3年(1575)に家康に仕え、その後の戦で数々の武功を挙げて重臣に昇りつめました。相当な美男子だったため特に家康から目を掛けられていたとも・・・
武田家滅亡後は多くの遺臣を直政の直属とされ、その部隊は「井伊の赤備え」とよばれ恐れられました。
天正18年(1590)には譜代の重臣を差し置いて、なんと徳川家臣団の中で最高石高の上野国箕輪12万石を与えられます(このとき本多忠勝、榊原康政は10万石、酒井忠次(子の家次)は3万石でした・・・(´Д⊂ヽ))。
ここで直政の性格について伝えられているエピソードを紹介します。
直政は家康からは非常に信頼されていましたが、家臣に対してはかなり厳しく、ちょっとしたミスも許さず手討ちにしていたそうです(>_<)
そのため、出奔する家臣も多かったと言われています。また、あまりにも家臣を手討ちにするので、登城する前に家族と別れの水杯を交わす家臣がいたほどだと伝わっています。
戦国の世なので現代の私たちの価値観では計れないですが、そのような話が伝わっているということは他の大名と比べて群を抜いて厳しかったということでしょう。
ちなみに直政が関ヶ原の戦いでの鉄砲傷が元で亡くなった時、殉死した家臣は一人もいなかったそうです(*_*;
直政は関ヶ原の戦い後、近江国佐和山18万石を与えられ、慶長7年(1602)に亡くなりました。
井伊直政の子孫(その後の井伊家)
井伊家はその後加増を重ね、譜代大名としては最高石高の彦根藩30万石の大名となります。江戸城内の詰所も会津松平家及び高松松平家と同じ「溜間」という臣下に与えられた最高の席でした。
譜代大名筆頭として江戸時代を通じて5人もの大老を出し、幕末に至り有名な大老井伊直弼が出てきます。
直弼は安政の大獄を行った結果、水戸藩浪士に桜田門外の変で暗殺されますが、その後井伊家の不幸が始まります。
井伊家は幕政の混乱の責任を取らされ、10万石の減封処分を受けました。石高が3分の2になるので相当重い処罰です。
第二次長州征討では榊原家と共に芸州口の先鋒を務めましたが、小勢の長州軍に惨敗し逃げ帰っています(ノД`)・゜・。
その後も幕府に冷遇されたことが原因で、戊辰戦争時には早々に新政府側についたといわれています。
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