甲陽鎮撫隊
鳥羽伏見での敗戦後に江戸に戻った新選組でしたが、江戸城内で幕臣に戦いについて聞かれた土方歳三は
「どうも戦争というものは、もう槍なんかでは駄目です。鉄砲にはかないません」
と笑顔で語ったといいます。
その後、近藤勇は若年寄格、土方は寄合席格など正式に幕臣とされ、甲陽鎮撫隊として200名の部隊を率い意気揚々と甲州に向け出発しました。
薩長を刺激する新選組の存在は幕府にとっても困ったものであり、体のいい厄介払いであったともいわれています。
近藤は、
「甲州100万石を取ったら、自分が10万石、土方が5万石、沖田、永倉は3万石」
などと言いながら、故郷近くの甲州街道を、飲んでは泊まり、宴会を繰り返しながら機嫌よくゆっくりと進んでいたそうです。(永倉新八曰く「近藤はもう焼きが回っていた」そうです(*_*))
そうこうしているうちに、甲府城は板垣退助率いる官軍3000人に先に占拠されてしまいました。
味方の兵も脱走が続出し、いつの間にか120名に減っていたそうで、大軍を前になすすべもなく、散々な負け戦で隊士も散り散りになり江戸へ退却しました。
新選組歴戦の隊士達が部隊として共に戦ったのはこれが最後となりました。
近藤勇の最後
甲州での敗退後、永倉、原田左之助らと会津行きを巡り、近藤は
「みんな家来になるなら一緒に行く」
と言ったため、永倉らは
「同志であって家来ではない」
と憤慨し、袂を分かつこととなりました。
その後下総流山で再起を図った近藤でしたが、官軍に誘い出されて偽名を使い出頭したものの、近藤を知る御陵衛士の生き残り加納道之助が居合わせて正体を見破り「やあ珍しや近藤氏」と声をかけ、近藤も「君がいたのでは仕方ないな」と苦笑いして捕らえられたといいます。
板橋の刑場で処刑されることとなりましたが、養子の近藤勇五郎は偶然その日板橋に用事があって来ていたそうです。「旗本が斬られる」との噂を聞き、直感で「父がやられる」と思ったとのことでした。
勇五郎の記憶では、近藤を入れた籠は30名の兵に囲まれ、刑場には既に穴が掘られており、その前に新しい筵が敷かれていました。
近藤は籠から降りると、帯のところに手をやってしばらく空を見ていたそうです。その後、堂々と落ち着いた様子で、床屋を呼び悠々とひげを剃らせた上で堂々と首を刎ねられました。薩長の憎悪の的であった近藤の首は京都まで運ばれ晒されたのでした。
明治の世で
「新選組は犯罪者集団ではなく単に警察権を行使していただけであり、首まで晒されたのは薩長の驕りだ」
と、東京帝国大学(東京大学)総長の山川健次郎(元会津藩士)はことあるごとに憤慨していたといいます。
土方歳三の最後
その後土方は、宇都宮、会津、函館と転戦し、各地で善戦しました。
冷徹で恐れられた「鬼の副長」も次第に性格は丸くなっていったようですが、戦での強さは変わらず、敗戦続きの旧幕府軍の中でも孤軍奮闘します。
函館の独立政府では陸軍奉行並という幹部に就き、敗色濃厚な中相変わらずの強さで奮闘していましたが、総裁の榎本武揚が官軍との講和に傾いてきたのを感じ取ると、
「官軍と和睦することがあっては死んだ近藤に会わせる顔がない」
と死に場所を求めるように戦い、明治2年(1869)5月11日に戦場の露と消えたのでした。
土方の遺体が発見されていないため、死因については、敵の流れ弾を受けて死んだとか、自決したとか、一人徹底抗戦を主張したため味方に暗殺されたなど諸説あります。
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