関ヶ原の戦いで西軍が総崩れとなる中、最後まで戦場に残っていた島津隊は、敵軍を正面突破して脱出します。この時、島津隊が取った戦法が「捨て奸(すてがまり)」です。
関ヶ原への参陣
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが勃発すると、島津義弘は西軍として参陣します。しかし、本国から兵の増援がなく、義弘の手勢はわずかに1500人ほどでした。
これは、前年に義弘の子忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害して内乱が起きており、当主義久と義弘が不和となったことが原因といわれています。
戦闘への不参加
西軍として参陣した島津家ですが、攻め込んできた東軍へは鉄砲射撃で追払いましたが、積極的には東軍へ攻撃を仕掛けず、戦闘を傍観している状況でした。
石田三成の家臣から東軍に攻撃するよう要請がきても取り合わず、直接指示をしに来た三成に「今日の合戦は、めいめい勝手に戦いましょう」と島津豊久が返答したといわれています。
敵中突破
小早川秀秋らが東軍に寝返ると、戦局が東軍に有利になります。その後、西軍は総崩れとなり敗走をはじめ、島津隊は戦場で孤立し退路を断たれました。
この時義弘がとった方法が、敵の陣中を正面から突っ切る敵中突破です。しかし東軍の追撃は激しく、島津隊は「捨て奸」で時間を稼ぎました。
家臣たちの必死の防戦で、義弘はなんとか戦場を離脱することに成功します。
その後、義弘は畿内にしばらく潜伏した後、薩摩国に帰還しますが、無事帰国できたのはわずか80数名だったといわれています。
捨て奸(すてがまり)
「捨て奸」とは、島津隊が島津の退き口を決行した際の戦法です。これは、敵軍の中を正面突破し、敵を足止めしている間に、本隊(義弘)を逃れさせるというものでした。
追撃する敵を食い止めるため、殿部隊からさらに小部隊を選抜して敵を食い止め、全滅したらまた新たに小部隊を置くという戦法でした。その戦法は「座禅陣」ともいわれ、小部隊の兵はあぐらをかいて銃を構え、敵を銃撃しました。
島津豊久はこの戦闘において殿軍を務めましたが、東軍の追撃は激しく島津隊は多数の犠牲を出し、井伊直政勢と乱戦になったため、豊久は義弘の身代わりとなって、付き従う家臣13騎と共に敵軍へ突入して討死しました。
「捨て奸」の方法には諸説ありますが、とにかく義弘が無事に戦場を脱出できたことは間違いありません。
なお、井伊直政はこの戦いで島津軍から受けた鉄砲傷の影響により翌々年に死去しています。
関ヶ原の戦い後の島津家
薩摩に帰国した義弘は、家康との和睦交渉を開始しながらも、同時に防備を増強し、徹底抗戦の構えをみせます。
この島津家の外交は成功し、2年後の慶長7年(1602)、西軍への参加を不問とされ、全く減封されることなく、領土を安堵されました。島津隊の退却戦での勇猛果敢ぶりが関係しているといわれています。
関ヶ原の戦い後の情勢不安定の中、島津を敵に回すことの恐ろしさを家康が感じたことが、西軍に付きながらも唯一領土安堵となったのでしょう。
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