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「荘園制度」とは~その隆興と衰退

 「荘園制度」とは、日本の古代から中世にかけて存在した土地制度で、「荘園」とは権力者が私有支配した農地とその周辺の山野を含む土地を指します。

 平安時代後期から鎌倉時代にかけて発展し室町時代に衰退しましたが、平安貴族の実態や武士の興隆などこの時代の歴史を考える上で不可欠なものですので、できるだけ簡単にわかりやすく?流れを紹介してみたいと思います。

荘園制度が始まる前は?

 古代では天皇や豪族がそれぞれ土地や人民を支配していましたが、大化の改新後に、班田収授法による公地公民制がしかれました。

 これは、戸籍を整えてそれに基づき民に口分田を分け与え、そこから租税を納めさせたものだったのですが、やがて口分田が不足するようになります。

 政府は口分田の不足を解消するため、大規模な開墾計画(722年:百万町歩開墾計画)や開墾した土地の所有を3代に渡って認める三世一身法(723年)を出しますが、あまり効果はありませんでした。

荘園制度の始まり

 荘園制度の始まりは、天平15年(743)に発令された「墾田永年私財法」です。この法律は、新たに開墾した田地の耕作権を永年私有することを認めました。

 これにより国の土地を耕して租税を納める「公地公民制」(班田収授法)が崩れだし、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪などが活発に開墾を行い、大規模な土地私有がなされるようになります。

 ちなみに、荘園で働いた人々は「荘民」、荘民をまとめ管理した開発領主は「荘官(荘司)」と呼ばれています。

荘園整理令が出されるものの…

 私有地である荘園が増えると、当然公地が減り税を負担する公民の数も少なくなります。公田からの税収入が減った朝廷は度々荘園整理令を出しましたが、あまり効き目がありません。

 なぜなら、その法令を作り実行する貴族自身が荘園を所有し、荘園からの収入で豊かな暮らしをしていたため実効性がなかったのです。

荘園の増加

 10世紀前半には班田収授法も行われなくなり、荘園は全国に広がっていきます。大きな私有地を有するようになった豪族は、荘園整理令などで土地を奪われないために、中央の権力者(藤原氏などの有力貴族や東大寺、興福寺などの大寺社)に土地を「寄進」しました。

 これは、土地の収益の一部を権力者に納めて名目上の権利者にすることで、国司や他の権力者からの介入を防ぎ、実質的な私有を続けたのです。

 元々荘園にも租税義務はあり、荘民にも律令制による労役負担などの義務はありましたが、荘園領主であった有力貴族たちは自分の荘園に関して、租税を納めなくてもよい権利「不輸の権」と国司の立ち入りを拒む権利「不入の権」を確保し、荘民が労役に供出されないようにしました。

 これらの荘園は、中央政府や国司から免税や免役などの特権を得たもので、「官省符荘」「国免荘」と呼ばれます。

鎌倉時代以降の荘園

 鎌倉時代になると、幕府により諸国の荘園に「地頭」が置かれました。地頭は幕府御家人から任命され、犯罪の取締りや荘官として荘園の管理、年貢の取り立てなどを行いましたが、次第に地元の権力者として土地を横領しようとしてきます。

 そのため、貴族や寺社などの荘園領主は地頭と交渉したり幕府に訴えるなどして「地頭請」という方法を取りました。これは、地頭の権利を認め荘園の管理を地頭に任せる代わりに一定の年貢を荘園領主に納めることを約束させるものです。

 やがて「地頭請」の約束も守られなくなってくると、「下地中分」という方法を取るようになります。これはもう土地を荘園領主と地頭で分け合う(一定の土地を地頭に明け渡す代わりに残りの土地の権利を守る)ものです。土地を全て横領されるよりはマシだったのしょう。

 しかし、結局現地に住まない荘園領主は、土地を地頭に奪われていったのでした。

 更に室町時代に入ると、室町幕府や諸大名が荘園を押領するようになりました。これらの荘園は、「武家領」と呼ばれます。武家領では、領主が現地の代官や年貢奉行などを通じて統治し、農民から年貢や公事などを徴収しました。

荘園制度の終わり~秀吉の太閤検地

 荘園制度の終わりは、豊臣秀吉が全国的な検地(太閤検地)を行ったことです。太閤検地では、土地の所有者や耕作者を登録し、年貢の額を定めました。これにより、荘園の特権や私有権は無効化され、土地は天下の公物とされました。

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