羽柴秀吉の元で活躍したことで有名な竹中半兵衛重治。今回はその子孫がどうなったのかについて紹介します。
晩年の半兵衛
秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、半兵衛は秀吉に従って中国遠征に参加します。天正6年(1578)5月には宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略によって落城させます。
同年、信長に謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦い)、黒田官兵衛が有岡城の村重の元へ赴き説得を試みますが、捕縛・監禁されてしまう事件が起こります。信長は官兵衛が村重に取り込まれたと思い込み、官兵衛の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じたのです。
しかし半兵衛は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り匿います。のちに官兵衛が助け出され、松寿丸も無事に官兵衛の元へ戻ることができたのでした。この一件により竹中家と黒田家の絆が深く固まったのです。この絆は永く続くこととなります。
翌天正7年(1579)4月、半兵衛は播磨三木城の包囲(三木合戦)中に病に倒れ、同年6月陣中にて死去しました。36歳の若さでした。
半兵衛の子重門
半兵衛の一人息子重門は、天正元年(1573)の生まれで、半兵衛が亡くなった時はまだ幼く、一族の竹中重利の後見を受けて、秀吉に仕えました。
過去に半兵衛が、朝倉義景との戦いの中で加藤光泰を助けたことがあり、その縁か、重門は光泰の娘を妻に迎えています。
天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いに従軍し、翌天正17年(1589)には美濃国不破郡に五千石を与えられます。
その後の小田原征伐にも参陣し、朝鮮出兵では戦目付として海を渡り、戦後、千石を加増され六千石となります。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当初西軍に属して犬山城に入りますが、井伊直政や旧知の黒田長政の仲介によって東軍に付き、自らの居城である菩提山城を徳川家康に提供しています。
なお本戦では、黒田長政軍に合流して戦い、戦後は逃走していた小西行長を捕える手柄を立てたことで、無事竹中家は存続することができたのです。
大坂の陣にも参陣し、子の重常が跡を継ぎますが、別の子重次は黒田家に仕えています。
重常の跡はその子重高が継ぎますが、弟の重之に千石を分知し本家は5千石となり、竹中家は、交替寄合(柳間詰)として美濃岩出山を代々継承し、領地替えされることもなく幕末まで続いたのです。
竹中重固
竹中家の幕末の当主は重固(しげかた)です。一族の家に生まれましたが、竹中本家重明の養子となり跡を継ぎます。
元治元年(1864)に大番組入りし、幕府陸軍創設後は陸軍奉行に就任しており、それなりに優秀な人物であったと思われます。
第二次長州征伐では安芸口の戦いにおいて、幕府軍先鋒の彦根藩、高田藩が敗れた後、精鋭の幕府陸軍を率いて、紀州藩とともに長州藩の攻勢を防いでいます。
そして続く慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いでは、陸軍奉行として旧幕府軍を率いて京都市中へ進軍します。
活躍が期待された重固ですが、指揮官でありながら伏見の前線で戦ったかと思えば、激戦の最中作戦会議のため淀へ引き上げるなど、ちぐはぐした行動となってしまい、活躍することができないまま旧幕府軍は惨敗を喫してしまったのです。
江戸に戻った後は純忠隊を結成し、上野戦争でも戦いますが敗れ、その後は奥羽を転戦します。そして、函館に渡り蝦夷共和国に参加しますが、そこでは軍役ではなく海陸裁判所頭取に就任しています。
そして、箱館戦争降伏前に脱出、英国汽船で東京へ逃れます。その後、養父の薦めにより新政府に投降したのです。
投降した重固は助命されますが、竹中家は改易、重固は福岡藩主黒田長知への永預となります。黒田家になった理由、黒田家での扱いについては分かりませんが、竹中家と300年縁が続く黒田家でしたので、それなりの待遇で扱われたのではないかと思います。
改易となった竹中家ですが、前当主黄山(重明)に対して改めて300石の所領が与えられ、家名断絶は免れています。
黒田家に預けられていた重固ですが、明治4年には福岡藩預かりから養父預かりの身に変更され、明治5年1月には罪を赦されます。
赦された重固は養父重明とともに北海道に入植します。北海道では精力的に動き、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出した記録が残ります。
その後東京に戻った重固は一時東京府に出仕した時期もありましたが、後に実弟が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力し、明治24年、64歳で亡くなったとされています。



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