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明治の鳥居強右衛門!?西南戦争での密使・谷村計介の活躍

 明治初期、陸軍兵士として佐賀の乱や西南戦争で戦った谷村計介。一兵士だった計介が歴史に名を残すことになりますが、明治の鳥居強右衛門ともいえるその活躍について紹介します。

計介の生い立ち

 計介は、嘉永6年(1853)、日向国(現宮崎県)の郷士坂元家の次男として生まれましたが、生後三カ月で母ウメが病死し、当時9歳だった姉わさが面倒を見たそうです。

 4歳の時、親族で絶家となっていた谷村家を継ぎ名を改めますが、そのまま実家で養育され、島津領であった郷士の子として学問のほか示現流をはじめ、馬術、弓術等の武芸に励みます。

 幕末には10歳上の兄祐光が薩軍兵士として戊辰戦争に従軍するなか、計介は一層武芸の修行に励んだようです。明治3年(1870)、鹿児島の私塾に入り、翌年には従姉妹と結婚しています。

 明治5年(1872)、妊娠中の妻を残し陸軍に入隊します。当初は鹿児島勤務でしたが、すぐに配属された部隊ごと熊本鎮台本営に異動となり、翌明治6年6月には一等卒に昇進しています。なお、郷里で生まれた娘は計介に会うことのないまま生後間もなく夭折しています。

 このころの話として、宮崎から父が面会に来た際、計介は父に対し、「もし姉が不縁になっても再嫁させてくれるな。自分が一生養う」と伝えています。母代わりだった姉のことを殊更大事に思っていたようです。

佐賀の乱での活躍

 明治7年(1874)、士族反乱である佐賀の乱が勃発します。熊本鎮台から派遣できた兵力は僅か数百人ほどで、そのうち3百人がなんとか佐賀城に入ることができたものの武器弾薬、兵糧は不足しており、数千の大軍で包囲し砲撃してくる反乱軍に大苦戦します。

 反乱軍が城門に押し寄せるのを、計介らが激しい銃火を浴びせて撃退したと当時の上官は述懐しています。

 更に鎮台兵は不足する武器兵糧を城外の倉庫から鹵獲するため、計介ら突出隊が城門を開けて出撃し、上官の山川浩少佐が重傷を負うなど大乱戦になりますが、弾薬と米28俵を城内に運び込むことに成功するのです。

 その後反乱軍は城内への砲撃を強め、棒火矢や焼弾などで建物を狙います。屋根に登って火を消そうとすると狙撃されていた中、数名が奮闘して消火に成功したのですが、計介が最も勇敢に働いたそうです。

 しかし、籠城も限界になり、鎮台兵は3隊に分かれて囲みを破って脱出することになります。

 計介が属した隊は敵の包囲を破り追撃をかわしながら逃げますが、国境まであと少しという所で、前方に敵がいる様子があり進めません。

 部隊が進退窮まったところ、突如計介が隊長に対し、

「自分が1人で先に進みます。もし敵がいたならば私を撃つため銃声がするでしょう。銃声がしたならば別の道を進んでください」

と申し出たのです。隊長はそれを許し、計介は先に進み、部隊はしばらく後ろを耳を澄ませながら進みましたが、幸いに敵はおらず、国境の川岸に着くと、計介がいち早く渡し船を確保して待っていたのです。

 部隊が川を渡り終えたころに追撃兵が来ましたが、船がないため渡ることができず、無事に追撃をかわすことができたのでした。

 その後、応援部隊により乱は鎮圧されましたが、その際の戦いにおいても計介は勇敢に戦ったとされています。

小倉への転属

 その後、熊本に帰ってすぐに佐賀での功績が認められ伍長に昇進しますが、休む間もなく台湾出兵に従軍し、翌明治8年に小倉に転属となりました。

 小倉では乃木希典の連隊に属していましたが、当時「佐賀征討戦記」という書物が出され、その中で計介の活躍が記されていたので、兵たちの中では一目置かれる存在となっていたそうです。

 明治9年に熊本で神風連の乱が起こると、小倉に出張中だった熊本鎮台参謀の大尉が急遽熊本に戻ることになりましたが、乃木は計介を選抜し、この大尉に随行させています。

 鎮台司令長官、県令までも命を落とすほどの乱で大混乱の中2人は熊本に到着しましたが、参謀児玉源太郎らの活躍により、乱は既に鎮圧されていました。

 計介は小倉に戻ることになりましたが、今度は児玉が計介を見込んで、不穏な噂がある柳川士族の動向を探ることを依頼し、計介は車夫に扮して柳川の動向を探り異常がないことを確認した上で小倉に帰隊しています。

 その後すぐ、計介は乱によりガタガタになった熊本鎮台本営への転属を命じられます。西南戦争が起こるわずか2カ月前でした。

西南戦争

 明治10年2月15日、薩軍が鹿児島を出発し西南戦争が勃発します。

 神風連の乱で亡くなった種田少将のあとを受け、再び谷干城が司令長官を務めていた熊本鎮台は、本営が置かれていた熊本城での籠城を決定します。

 精強な薩摩士族を中心とした薩軍約1万3500人に対し、熊本鎮台は庶民からの徴兵を中心とした3500人ほどで、苦戦は必至だったのです。

 2月21日に熊本城を包囲した薩軍はすぐに猛攻を開始します。

 樺山参謀長は重傷を負い、与倉連隊長が戦死するなど、激しい戦いとなりますが、鎮台兵は善戦し、城内への侵入を許さず、戦いは膠着状態に陥り、薩軍は包囲してからの砲撃戦へ移ったのです。

 薩軍の包囲で外部との連絡が断たれた戦いの中、援軍の状況も分からない鎮台は、外部への密使を出すことにします。

 そこで多数の士官から名前を挙げられたのが計介でした。

 2月25日、連隊本部から呼び出された計介は、連隊長から直々にその役目を頼まれます。

 さすがの計介も、薩軍の包囲を突破する決死の役目に、到底役目を果たすことはできないと断ったそうですが、重ねての依頼に、ついに役目を受けることにしたのです。

 連隊長は喜んで計介を谷司令長官の元へ連れていき、谷から直接役目を言い渡されると、計介は「はい」と一言だけ答えたそうです。

 意を決した計介はそのまま炊事場へ行き、炭を全身に塗り込んで濡れ雑巾で擦り込み、半纏股引の百姓の姿に変装します。

 そして、2,3人の戦友に送られて哨兵線まで行くと、「然らば皆さん」と一言残し、真夜中に城を出たのでした。

 薩軍による厳重な包囲がしかれていましたが、夜陰に紛れうまく部隊の隙間を抜けることに成功すると、熊本城西方の山越えにかかりますが、突然敵兵が現れ捕まってしまいます。

 計介は近所の百姓だと弁解しますが怪しまれ、激しく殴られながら拷問されてしまうのです。

 しかし計介は百姓だと言い張り、やがて敵兵らは計介を縛り付けたまま寝てしまったため、計介は爪で縄をこすり続けて、ついに縄を切り逃げ出すことができたそうです。

 そのまま夜通し進み、援軍が来ていると思われる福岡に近い高瀬方面に進みますが、今度は途中の田原坂付近において、薩軍に味方する熊本隊(熊本の士族隊)に見つかり捕えられてしまいます。

 計介は、「小倉の豆腐屋の息子で徴兵され熊本鎮台に入ったが戦争が怖くて逃げだした」と言い逃れて、前のように拷問されることなく、城内の様子を問いただされると、

「兵糧はほとんど残っておらず、兵の士気も低い」

と嘘を並べて信用されたのですが、熊本隊の人夫として働かされることになったのです。

 二日ほど真面目に働いて隙を見つけた計介は、またも逃げ出すことに成功します。後に生き残った熊本隊士らの回想によると、計介のことは逃亡兵だと信じられていたそうです。

 そして3月2日、ついに計介は、高瀬まで進軍してきた政府軍の元に辿り着くことができたのでした。乞食のような格好に、初め鎮台兵であることが信用されず一旦縄をかけられますが、すぐに誤解は解けます。

 そしてようやく野津第一旅団長ら応援部隊幹部たちの前に通された計介は、感極まって涙を流しながら、谷司令長官からの伝言である、

〇 城内の食料はまだ数十日分ある。
〇 銃砲弾薬も不足していない。
〇 谷少将は無事で、樺山・与倉両中佐は負傷したものの軽傷で、樺山は既に復帰している。(実際樺山は重傷で与倉は戦死していましたが)
〇 兵達の士気は高い。
〇 征討軍が城に近寄れば、直ちに出撃することができる。

を報告したのでした。幹部たちに次々と戦況を尋ねられると、毅然とした態度でそれに答え、また、途中2度捕まったときの状況も説明しています。(後に熊本隊の証言と合致しています。一度目に捕まった相手は不明のままです)

 そして計介は、すぐに熊本鎮台に戻ることを願い出ました。仲間たちに援軍のことをすぐに伝えたかったのでしょう。何度も願い出ますが許されず、それならば前線で戦わせてくれと願うも、危険なためかそれも許されず、結局野津旅団長付きの伝令を命じられます。

 その後すぐ、3月4日に田原坂の戦いが始まります。薩軍は段々に堡塁を築き防備を固めており、政府軍が多大な犠牲の上で一塁を奪取しても、すぐに次の塁から攻め返され奪い返されます。

 野津旅団長の前線視察に随行していた計介は、全く前進できない味方の様子を見て憤然として突如負傷者の銃を取り、単身で敵堡塁に突撃したのです。

 しかし複数の敵弾を浴びて倒れ、25歳でその命を落としてしまったのでした。

 その後熊本鎮台は籠城戦を耐え抜き、4月になり解放されています。鎮台に籠城していた人の回顧談によれば、計介が戦死したとの知らせがあった時、鎮台で涙を流さない者はいなかったそうです。

計介の家族たち

 計介の妻は宮崎に残っていましたが、計介の兄をはじめ周りは薩軍に身を投じた者ばかりだったので、皆に隠れて密かに計介の無事を祈願していたそうです。妻は計介の死後、実家に帰っています。

 なお、計介の兄と姉の夫も薩軍として戦死しており、父と姉が残ったことになりますが、明治13年2月、父は計介の弔慰金を受け取りに鹿児島まで出かけたところで、背後から銃弾を浴びた謎の死を遂げています。

 谷村家は親戚の定規が養子となり継ぎますが、定規は計介遺族に贈られた献金を学資として明治23年に陸軍幼年学校に入校後、陸軍幹部として活躍、大正11年には陸軍少将となり歩兵第16旅団長を務めています。

 姉のわさは、明治24年に東京の谷干城邸に招かれ歓待されており、また、明治32年に谷が宮崎を訪れた際にも面会しています。

死後の追悼

 明治15年(1882)、谷干城が発起人となり、計介の記念碑が建てられることが決まり、全国陸軍から2万人が献金を寄せ、宮中からの下賜金まで出され、翌明治16年、靖国神社境内に建立されています。

 更に、大正13年には皇太子婚姻を祝して、国家に功労があったとして計介に従五位が贈られ、養嗣子の定規がこれを受けています。

元会津藩家老・山川浩中佐と西南戦争~熊本城一番乗りまでの道
元会津藩家老で明治期にも活躍した山川浩の生涯について、西南戦争での熊本城籠城軍救援の活躍を中心に紹介していきます。