徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の子孫家は、江戸時代を通じて先祖の功により特別な扱いを受け幕末まで続いていますが、幕末の動乱期にどのような行動をとったのでしょうか。
庄内藩(酒井忠次家)
出羽庄内14万石(幕末に17万石に加増)で幕末を迎えます。
幕末に幕府から江戸市中警備の任を受けますが、武力討幕を画策する薩摩藩が幕府を挑発するために強盗、放火等を繰り返したため、庄内藩が中心となり薩摩藩邸焼き討ちを実行しています。
戊辰戦争では会津藩と共に奥羽越列藩同盟の中心として新政府軍と戦っています。同盟軍諸藩は新政府軍に連戦連敗していきますが、庄内藩では若き指揮官酒井玄蕃(通称鬼玄蕃)らの活躍により連戦連勝を重ねます。
しかし他の同盟藩が次々と降伏し、最後は会津藩が降伏したことで、庄内藩も無敗のまま新政府軍に降伏しています。
降伏後の処分は会津藩と比べると軽い減封・転封で済み、しかも領内の豪商本間家等領民からの嘆願・献金により結果として庄内藩が存続し、後に酒井家は伯爵となっています。
岡崎藩(本多忠勝家)
本多忠勝家は転封しながら15万石を領しますが、途中無嗣改易のところ忠勝家ということで5万石での存続を許され、その後明和6年(1769)に岡崎5万石の藩主となり幕末を迎えています。
幕末の藩主忠民は京都所司代や老中など幕府要職を務めたため、藩内でも佐幕派と尊王派に分かれたようですが、戊辰戦争では新政府に恭順し、後に本多家は子爵となっています。
彦根藩(井伊直政家)
彦根35万石を領し大老も度々輩出するなど、代々譜代筆頭として活躍します。
幕末は大老となった直弼が安政の大獄を行った結果、水戸藩浪士に桜田門外の変で暗殺された挙句、井伊家は幕政の混乱の責任を取らされ10万石の減封処分を受けてしまいます。
第二次長州征討では、榊原家の高田藩と共に芸州口で名誉ある先鋒を任され、戦国以来の赤具足に旗指物で勇ましく進軍しましたが・・・
高田藩と合わせて1万の兵だったといわれますが、長州支藩の吉川家が恭順すると聞いて油断していたようで、千人にも満たない決死の長州軍に山上から砲撃を受け高田軍が敗走し、彦根軍は川を渡る最中に奇襲を受けて大混乱に陥り、両藩とも装備も放棄して逃げ帰っています。
幕府から冷遇された結果でしょうか、戊辰戦争では早々に新政府軍に加わり各地を転戦し、後に井伊家は伯爵となっています。
高田藩(榊原康政家)
本多忠勝家と同じく転封しながら15万石を領し、寛保元年(1741)に越後高田15万石の藩主となり幕末を迎えています。
第二次長州征討では先に書いたとおり大敗北を喫して先祖の面目を失ってしまいます。
戊辰戦争では新政府に恭順の意を示すも、慶喜の赦免を要望したり旧幕府軍の通行を許すなど態度を決めかねていましたが、新政府軍が近づくと参加を決め、先鋒として東北各地を転戦します。なお一部の藩士は脱藩して神木隊を結成し旧幕府軍に加わっています。
後に榊原家は子爵となっています。
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