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土屋昌恒の子孫~武田家忠臣のその後

 【武田遺臣と家康】でも紹介していますが、土屋惣蔵昌恒は武田勝頼が天目山の戦いで自刃した時に、最後まで従って戦死を遂げた忠臣として知られています。片手千人斬りの異名が有名です。ここでは昌恒の子孫の興味深い事績を紹介します。

土屋忠直~昌恒の遺児

 昌恒の長男忠直は父が天目山の戦いで戦死した年に生まれました。父が戦死した後に駿河国清見寺に隠れていましたが、徳川家康から召し出され、家臣となります。この清見寺は家康が人質時代に太原雪斎から教育を受けていた寺です。何か家康と縁を感じますね。また、当寺は江戸時代に徳川家の庇護を受けています。

 家康の家臣に加えられた武田家旧臣は多数いましたが、その中でも最後まで忠義を全うした昌恒の遺児は特に目をかけられたのではないでしょうか。立花宗茂が大友氏も豊臣氏も最後まで裏切らず戦い抜き、一度改易されながらも大名として復活したように、忠義の家は大事にされるということでしょう。もちろん例外もありますが、、、

 忠直はその後、徳川秀忠の小姓となり、最終的に上総久留里藩2万石の大名まで出世しました。

土屋数直~老中となった昌恒の孫と武田家

 数直は忠直の次男として生まれます。土屋家の家督は兄利直が継ぎましたが、数直は徳川家光の近習に任じられた縁から、出世し老中となり、最後は常陸土浦藩主4万5千石の大名となりました。

 『武野燭談(ぶやしょくだん)』:三〇巻(国史叢書)に以下の興味深い記述があります。『武野燭談』とは、宝永6年(1709)に成立した、徳川家康から綱吉までの歴代将軍、御三家、諸大名、旗本等の事績や言行を書き留めた書です。

「此但馬守数直老臣たりし時、武田越前守信英は、大御番頭なりけるに、日頃は格別年始一度宛は、越前守を招請しけるに、是れ先祖民部大輔以来の格を以て改めず、主従の礼を守るに付き、其日は使者を以て刻限を伺ひ、但馬守則ち門前迄出でて之を迎ふ。さて饗応あるに、但馬守自身急度配膳しけり。常武の役儀に付きての参会には、職の格式を守りけるいとやさし。其子の相模守政直もまた、父が勤来りし格式を、少しも改めずして、奔走しけるとかや。」

 ここで出てくる武田越前守信英(信玄弟武田信実の曽孫)は大番頭なので、老中である数直の部下にあたりますが、年始の挨拶には武田時代の主従の礼をもって接していることがわかります。数直の子の政直も老中になりますが、父と同様に武田家とのこの関係を継続していたことが記されています。

 数直は寛文5年(1665)に老中に任じられており、延宝7年(1679)に亡くなっています。また、武田越前守信英は『寛政重修諸家譜』(同譜によれば信英ではなく信貞)によると、寛文10年(1670)から天和3年(1683)までの間、大番頭に就任していましたので、この記述の時は甲斐武田家滅亡から約百年近く経っていることになります。時が経っても旧主の武田家を敬っていたことがわかるエピソードですね。

徳川旗本となった武田一族~その後の武田家
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土屋政直~4人の将軍に仕え31年間老中を務める

 政直は数直の長男として生まれ、父の死後に家督を相続します。一時期駿河田中藩に転封となりますが、その後土浦藩に復帰し、最終的に9万5000石まで加増されます。綱吉・家宣・家継・吉宗の4人の将軍に仕え、31年もの長期間、老中を勤めました。家継の後継者争いの際は、吉宗の将軍擁立に尽力しています。

土屋主税逵直~赤穂浪士討ち入りの目撃者

 土屋本家の当主で一般には主税で知られています(ここでは主税で統一)。土屋本家は主税の父直樹(忠直の孫)が不行跡により延宝7年(1679)、上総久留里藩2万石を改易されました。しかし、甲斐武田家以来の名門であるため、長男の主税が3千石を与えられ、旗本寄合席として幕末まで存続しています。

 「忠臣蔵」では、赤穂浪士が討ち入りの時、吉良邸の隣家の主税邸に、挨拶に行く場面がありますが、史実はどうだったのでしょうか。

 土屋家が事件後、幕府の検死役人に提出した口上書には、
「最初は火事と思ったが庭に出てみると喧嘩のようにみえたので、塀際を固めさせた。吉良邸側に声をかけると、吉良を討ち取って本懐を遂げたとの答えが返ってきた。その後、5、60人ほど出ていき、いずれも火事装束のように見えた。」
等と述べられていたそうです。

幕末の土屋家

幕末動乱を生き抜き子爵家へ

 8代藩主土屋寛直が継嗣無く亡くなったため、水戸徳川家より彦直を9代藩主として婿養子に迎えます(正室は寛直の妹充子)。そして、彦直と充子の間に生まれた寅直が10代藩主となります。

 この寅直は水戸藩主徳川斉昭の従弟にあたることから、佐幕派と討幕派の間で苦労したそうです。慶応4年(1868)に寅直は隠居して養子の挙直に家督を譲ります。挙直は斉昭の十七男で、15代将軍徳川慶喜の異母弟にあたります。

 その後、土屋家は無事に明治維新を迎え、版籍奉還により土浦藩知事に任じられ、華族令で子爵となっています。

 最後の藩主挙直が、最後の将軍慶喜の弟ということに、戦国時代以来の土屋家と徳川家の不思議な縁が感じられますね。

剱沢小屋雪崩事故

 余談ですが、挙直の跡を継いだ正直の長男土屋秀直は、慶応義塾大学在学中の昭和5年(1930)、趣味の雪山登山中に雪崩に巻き込まれ死亡しており、子爵家の跡継が事故にあったとして当時大きな話題をよんでいます(剱沢小屋雪崩事故)。

土浦城跡

江戸時代土屋家の居城となった土浦城

 

 

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