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上杉家生き残り戦術~直江兼続と本多政重

 直江兼続は2009年の大河ドラマ『天地人』で妻夫木聡さんが演じた知勇兼備で「義」を貫き通したといわれる戦国ファンに有名な武将です。ここでは直江兼続とその養子となった本多政重について話そうと思います。

上杉家の生き残り戦術~兼続と政重

 関ヶ原の戦い当時、上杉家は西軍について出羽長谷堂城で最上義光と戦闘を繰り広げていました。しかし、石田三成が敗れたため、攻略を断念し撤退することになります。ここから兼続は家康に降伏し、上杉家存続のため動きます。

 慶長6年(1601)7月、兼続は景勝とともに上洛して家康に謝罪しました。上杉家は会津120万石から出羽米沢30万石へ大減封されながらも、存続を許されました。

 石高が4分の1に減らされた上杉家は財政の立て直しを図ることになります。家臣の知行を3分の1に減らし、兼続は6万石から1万石とし、さらにその半分を家臣に分けたため、実際は5千石となりました。相当な覚悟がうかがえます。

 そして兼続は上杉家と徳川家の融和を図るため、慶長9年(1604)8月に徳川家の重臣本多正信の次男・本多政重を兼続の娘於松の婿養子に迎えます。政重は直江勝吉と改名し、上杉家と幕府との仲を取り持つ役割を期待されました。

 しかし、この時に1つの事件が起きます。政重の直江家への養子縁組みに反対した兼続の弟大国実頼が政重を迎えるための使者を殺害し、高野山へ逃げてしまったのです。

 慶長10年(1605)に於松が病死しますが、同14年(1609)に大国実頼の娘阿虎を政重に嫁がせ引き続き養子縁組は継続されます。阿虎は実頼出奔後に兼続が預かっていました。また、同年に正信の取り成しで10万石分の軍役が免除されるなど、政重の存在は上杉家に大きく貢献することになるのです。

 なお、兼続には景明という実子と上杉家重臣の本庄繁長の三男長房という養子がいました。長房は直江与次郎と名乗っていましたが、景明が生まれると本庄家に戻されています。長房はのちに政重が加賀藩へ帰参した際(後述)に、共に米沢を去って加賀藩に仕えました。2代藩主定勝の時、米沢藩に帰参しています。

 景明は本多正信の仲介で膳所藩主戸田氏鉄の娘を嫁に迎えており、兼続は幕府との結びつきを一層強めて権勢を保持します。

その後の兼続と政重~加賀本多家の誕生と直江家の断絶

 しかし、慶長16年(1609)に政重は上杉家を出奔し、翌年に以前仕えていた前田家に帰参しました。政重は幕府との橋渡しを期待され、前田家においても3万石の高禄を与えられます。この時政重とともに上杉家から前田家に移った藩士も数十名おり、財政難に苦しんでいた米沢藩の人員削減にもなりました。

 政重はのちに幕府との交渉で加賀藩を救った功績により2万石を加増され5万石となり、江戸時代を通じて陪臣としては最高の禄高を得ます。政重の出奔理由には諸説ありますが、直江家の継嗣を兼続実子の景明に譲るためだったのではないでしょうか。関ヶ原の戦いから10年経っており、父正信を通じて幕府との関係も改善したので、上杉家は自分がいなくても大丈夫だと思ったのでしょう。

 元和2年(1616)に父正信が死去し、同8年(1622)に兄本多正純が失脚したのちも前田家内において全く立場が変わらなかったことは、幕府と前田家との潤滑油的な役割というより政重自身の個人的能力を買われた結果だと思います。

 利長、利常、光高、綱紀の4代に重臣として仕え、正保4年(1647)に死去しました。

 加賀本多家は、明治維新まで加賀藩最高の家格である加賀八家の一として存続しますが、直江家は景明が早世したため、兼続の死去をもって断絶となりました。直江家の断絶に関しては、高禄の直江家の知行を返上することで上杉家の財政を助けるためにあえて断絶させたという説がありますが、確証はありません。

 直江家はなくなりましたが、兼続が生涯を通して守り抜いた上杉家は江戸時代初期から幕末までに何度かの危機に遭いながらも明治維新を迎え、華族令制定により伯爵となっています。

 また、兼続と共に米沢藩の藩政初期に重要な役割を果たした政重の子孫の加賀本多家は、幕末には当主政均が暗殺されるという悲劇に見舞われますが、その子政以は華族に列せられ、男爵を授けられます。

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