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御庭番の話~維新後の回顧談

 明治時代に東京帝国大学の学者が、旧幕府関係者から話を聞いた記録「旧事諮問録」から、御庭番の話を紹介します。

御庭番の始まり

8代将軍吉宗が紀州から連れてきた17家が御庭番となった。元々は低い身分だったが、子孫では勘定奉行にまで出世した人なども出た。
本丸御庭番は17家の子孫のみが務めた。
身分は「御広敷(おひろしき)伊賀者」となったが、家康が伊賀から連れてきた伊賀出身者ではない。「伊賀者」は身分で「御庭番」は役職であった。

御庭番の表の仕事

御庭番には表の正式な勤めと内密の勤めがあった。
昼は本丸御広敷の部屋に詰め、交替で夕方(午後4時)から本丸庭にあった御番所へ行って宿直をした。
日常の勤務は、本丸へ大工・植木職人等が入る時の立会い、その他行事の雑用などであった。
日光参詣の御供や奥方輿入れの出迎え等も従事した。

御庭番の裏の仕事(内密御用)

内密御用については、通常の御用御取次の手を経ずに奥の番から御駕籠台へ出るように命じられる。部屋は閉め切られ御駕籠台の下で平伏していると、小姓も連れずに御駕籠台に将軍が出てきて指示が出された。
御小納戸(将軍の身の回りの世話役)、奥医者などに任じられる者の身元、素行調査は内密御用の業務だったが、将軍からでなく御用御取次を通じて命じられた。
素行調査では、対象者側から接触があって良く報告しておいてくれと頼まれることがあったが、「そのような役目は受けておりません」とごまかしていた。
これは他の任務も同様で、17家申し合わせて守っており、背く者があれば追い出された。
西丸にも御庭番がいたが、内密御用をするのは本丸御庭番だけであった。
御庭番になってもしばらくは表の仕事のみで、その仕事ぶりを見て先役から手伝いを任されたりして後に内密御用を任せられるようになる。
政治向きの問題や大名の品行などは、指示がなくとも情報収集をしていた。
御代替わりの際に幕府巡検使が諸国を回る際は、その通った後を内密御用で回り、不正等がないか確認していた。
12代将軍家慶からは地震や飢饉のときに心配して様子を見てくるように命じられたこともあった。なお、すぐに「まだ帰らぬのか」「まだ帰らぬのか」と帰りを待ちわびておられたそうだ。
諸国に御庭番の手の者はいなかったが、京都と大阪に一人づつ呉服商を営んでいるものが御庭番の手の者で、日頃から情報収集をしており、御庭番が赴いた際はそこを拠点としていた。
諸国へ探索に赴く際は必ず二人で、一人は慣れた者が当たるようになっていた。行先は京都大坂が多かった。それと別に、江戸からの供の役は呉服屋や大店等と関係がある飛脚屋の手代が長年務めており一緒に行っていた。
情報収集は畳の上ですることが多かった。
悪い報告では、なるべく軽くなるよう配慮した内容にしていた。
幕末には京都出張が多かったが、見廻組ができると、京都での探索は御庭番ではなく見廻組が中心となった。
探索をすると諸費用と別に5両位褒美が出た。米が百文で1升位の時代だったのでとても有難かった。
家にあった内密御用関係の書類は、維新の際に全て燃やした。
https://youtu.be/SuZeleVZ8DY
【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
旧事諮問録(東京帝国大学史談会:青蛙房)