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徳川旗本となった武田一族~その後の武田家

 戦国大名武田家が滅亡したあとに徳川家臣となった武田家臣は紹介しましたが(「武田遺臣と家康」参照)、今回は徳川家臣となった武田家の子孫を紹介します。

信玄の次男龍芳(海野信親)の家系~高家武田家

 信玄の次男龍芳は信濃の豪族海野氏の名跡を継ぎますが、盲目であったため仏門に入りました。龍芳は織田家の甲斐侵攻の際に自害したとも殺されたともいわれますが、その子武田信道は甲斐侵攻を逃れて仏門に入り生き延びます。

 信道は寺で平穏に暮らしていたと思われますが、武田遺臣であった大久保長安に庇護されていたため、慶長18年(1613)の大久保長安事件に連座して子の武田信正とともに伊豆大島に流されてしまいます。元々従っていた武田旧臣のうち、大島には9名が随従したそうです。

大久保長安事件~伝説と野望の真相!?
大久保長安の生涯や事件に関しては昔から様々な逸話が語られていますので、伝説の類も含めて紹介します。

 信道はそのまま伊豆大島で没しますが、信正は寛文3年(1663)に徳川家光の十三回忌に合わせて赦免され、磐城平藩主内藤忠興に迎えられて島から戻ったのです。

 信正は慶長5年(1600)の生まれでこの時かなりの高齢でしたが、なんと忠興の娘の婿となります。この内藤家は徳川譜代の臣で、武田家臣であった内藤昌豊とは無関係です。いくら武田家の血筋といっても、50年間島流しにあっていた老人が、なぜこのような待遇を得たのでしょうか?

 実は、信正の妻となった忠興の娘を生んだ側室は「香具姫」といって、武田家臣であった小山田信茂の孫娘だったのです。香具姫は織田家による武田侵攻の際に松姫(信松尼:信玄の娘)に連れられて甲斐から落ち延び、そのまま松姫に養育されて内藤忠興の側室となっていたのでした。

松姫(信松尼)と督姫・貞姫・香具姫~生き延びた武田の姫たち
天正10年(1582)、織田信忠の甲斐侵攻により武田勝頼は自害し武田家は滅ぼされますが、信玄の娘松姫は武田家の幼い姫たちを連れて逃げ延びます。その後の姫たちは・・・

 更に信正はこの妻との間に子武田信興をもうけます。信興は寛文12年(1672)の生まれですから、70を過ぎて武田家の跡継ぎを得たことになります。

 小山田信茂は最後に勝頼を裏切った不忠者とされていますが、信茂の孫娘のおかげで武田家の名跡が保たれたのです。

小山田信茂~「裏切り者」といわれた男
小山田信茂は甲斐武田家滅亡の時、勝頼を最後の最後に裏切った武将として知られていますが・・・・・

 後に信興は、武田遺臣の孫で幕閣の権力者であった柳沢吉保の庇護を受け、高家旗本として取り立てられます。幕府からは信興の家系が武田嫡流と認められ、子の信安が跡を継ぎますが、信安の後は柳沢家から養子に入った信明(吉保の曾孫)が跡を継いだので、高家武田家の名跡は現在まで続いているものの、信玄の血筋から柳沢家の血筋に入れ替わっています。

信玄の5男仁科盛信の家系

 勝頼の弟仁科盛信の子信基が松姫に連れられ八王子に落ち延び、後に旗本となったといわれるほか、数家が盛信の子孫であるとしていますがよくわかっていません。

 『寛政重脩諸家譜』での仁科家の項では、盛信から信久→信衛→信道と続いていますが、信久、信衛については注釈で真偽不明とされています。

 正徳四年(1714)に、盛信の子孫とする仁科資真という旗本が、松姫開基の信松院に軍船の模型などを寄進した記録が残っています。

信玄の弟武田信実の家系~河窪(川窪)武田家

 武田信実(信實のぶざね)は武田信虎の7男で、信玄の弟になります。

 『寛政重脩諸家譜』によれば、

信實甲斐国に住せしころ、三河国の住人篠瀬某といふもの東照宮の命にそむき、信實が許に来り属す。のち御ゆるしありてかへるのとき、信實東照宮の鷹を好ませたまふ事をきき、篠瀬に鷹二もとあたへてこれを献ぜしむ。東照宮このことを聞しめされ、信實が情ある事を感じたまふ。天正三年五月二十一日長篠合戦のとき鳶巣において討死す。年三十二。
と記されています。
 更に、信実の子信俊の項では、
天正十年武田勝頼没落ののち東照宮甲斐国に入せたまひ、篠瀬某におほせありて、信實が子孫をたづねたまふにより、信俊がことを言上せしかば、召されて東照宮に仕えたてまつる。信俊はじめ甲斐国川窪の地を領す。ゆへに武田をあらため川窪を称す。
と、家康に仕えるようになった経緯が記されています。
 なお、この篠瀬という徳川家臣についてはよくわかっておらず、一説には武田家の内情を探るために徳川家から出されたスパイであったともいわれています。
 もしスパイであったとしても、この篠瀬も家康も信実の人柄に取り込まれており、また、家康が鷹狩りを好むという情報も得ていることから、スパイに気付いていたかどうかにかかわらず信実が優れた武将であったことを示すエピソードだと思います。
 なお、信実は上記のとおり長篠の戦いの前哨戦である鳶巣山の戦いで討死していますが(「酒井忠次」の項参照)、武田一族がことごとく滅んでいく中信実の子孫は無事に生き残っており、家康に鷹を送ったことも、信玄死後の武田家に不安を感じ保険を掛けていた可能性もあるのではないでしょうか。
 家康に仕えるようになった信俊はその後目覚ましい活躍をします。信濃の反乱鎮圧では柴田康忠隊に属して、敵が陣を張って待ち構える中、川を渡って一番乗りで敵の首を取るなどの戦功を挙げ、翌年の信濃平定戦でも一番槍で敵の首を挙げています。
 小牧長久手の戦いでも信俊の一党は9つの首を挙げ、うち3つは信俊自ら討ち取ったとされています。
 小田原攻めでは平岩親吉隊に属して活躍し、その後も陸奥国九戸一揆鎮圧戦、関ヶ原の戦い、大坂の陣まで従軍し、1600石の知行を与えられています。武田家の名だけでなく自らの武功で家を立てていますね。
 信俊の後は信雄、信貞と続きますが、寛永4年に信貞が従五位下越前守に叙任し武田姓に戻しています。
 なお、この武田信貞が大番頭(幕府の直轄部隊長)を勤めていたとき上役に当たる老中の一人は、武田勝頼に最後まで従って死んだ土屋惣藏昌恒の孫である土屋数直でした。
 普段は通常の仕事関係だったそうですが、正月には土屋家に信貞を招いて数直自ら門まで出て出迎え、配膳まで数直が直接行うなど武田家を主として接待していたとの逸話が残っています。信貞の代に知行は5700石まで加増を受け、その後も大身の旗本として存続しています。(土屋昌恒の子孫~武田家忠臣のその後)
 ちなみに信貞の曾孫の信村も大番頭を勤めていましたが、武田信玄が駿河侵攻により今川館(後の駿府城)を落としてから約200年後の明和5年(1768)から約10年間駿府城代を勤めています。
 番頭や駿府城代は旗本が付く役職としては最上位に位置するので、代々旗本の中心として活躍していたのでしょう。信実の家系は分家も多く、武田一族の子孫としては江戸時代最も繁栄していたようです。

信玄の末子武田信清の家系~米沢武田家

 こちらは徳川家臣ではありませんが、信玄の血筋を保っている家ですので合わせて紹介します。
 信玄の末子武田信清は永禄6年に生まれ、5歳で出家し玄龍と号しましたが、天正6年に還俗しています。
 天正10年の織田軍侵攻を逃れて一旦高野山に潜んでいたようですが、その後姉菊姫の嫁ぎ先である上杉景勝を頼り、義に厚い景勝は、3000石の扶持を与えて信清を受け入れます。
 景勝の元で、しばらくの間信清は武田家復興を夢見ていたようですが、関ヶ原後に上杉家は米沢へ転封となり、信清も従って米沢に移り1000石(米沢藩が30万石から15万石に半減してからは500石)を与えられ、代々上杉家臣の名門(米沢藩高家衆席次第1位)としてその血筋を現代に保っています。
 なお、大久保長安事件の際には信清にも嫌疑がかかり、幕府から招致され本多正信に取調べを受けたそうですが、何も証拠がなかったので咎められることはなかったそうです。


武田遺臣と家康~徳川家臣となった甲州武者たち
天正10年天目山の戦いで勝頼・信勝父子が自害し甲斐武田家は滅亡しましたが、徳川家康は少なくとも約800人の武田遺臣(武田旧臣)を家臣にしており、江戸時代を通じて多くの子孫が活躍しています。


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