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戦国大名の分国法一覧

戦国大名の「分国法」「家法」とは?

 戦国大名が定めた法は「分国法」や「家法」とよばれていますね。一般的に知られる「分国法」は領国統治のための法で、「家法」は元々その家の家訓であったものが発展して一部統治法になったものとされ、「早雲寺殿廿一箇条」や「朝倉孝景条々」は「家法」に分類されるといわれていますが、ここではまとめて「分国法」として紹介していきます。

 鎌倉時代に制定された「御成敗式目」を元にしているものが多いのですが、各地で異なったものとなっており、法にされているものを見てみると、その当時大名たちがどんなことに困っていたのか、どんなことを警戒していたのか垣間見えるのではないでしょうか。

戦国大名の主な分国法一覧

朝倉孝景条々(あさくらたかかげじょうじょう)

 「朝倉敏景17箇条」や「朝倉英林壁書」ともよばれ、斯波氏から越前の支配権を奪った朝倉孝景(敏景)が、文明年間(1469~87)に制定しています。

 家柄ではなく能力主義による登用、朝倉家のほか城郭を構えてはいけないことや、家臣は朝倉家本拠地の一乗谷に住むことなど、後の世の先駆けとなるようなことが定められています。

 「孝景」「敏景」は同一人物で、数度変名しています。先進的、合理的な人物でしたが、公家、寺社の荘園を横領したりしたため旧勢力からは「天下の悪人」と恨まれており、京都の寺から呪詛された際にも名を変えて呪いから逃れようとしたといわれています。合理的なのかどうか・・・面白い人物ですね(*^-^*)

相良氏法度(さがらしはっと)

 肥後人吉の相良家が、1400年代後半から1500年代前半の三代(為続、長毎、晴広)に渡って制定しており、刑事手続から、田畑の売買や水利権、人身売買に関するものなど、内容は多岐に渡っています。

 相良家は鎌倉時代初期から明治の廃藩置県まで同じ所領を統治した数少ない大名家(薩摩の島津家、対馬の宗家など)であり、この法度の大部分は江戸時代の相良家(人吉藩)でも使われています。

大内氏掟書(おおうちしおきてがき)

 「大内家壁書」ともよばれ、周防の大内家がそれまでに定めていた家中の儀礼的規定や軍役など家臣の統制に関することから、寺社関係など様々な分野についての掟を、明応4年(1495)頃にとりまとめたといわれています。

「壁書」・・・法令や掟を板や紙に書いて壁に貼り付け知らしめたもの。

塵介集(じんかいしゅう)

 天文5年(1536)に陸奥の伊達稙宗(伊達政宗の曾祖父)が制定しています。171箇条に及ぶ分国法最大規模のもので、殺人や盗人に関するものなど刑事関係が約三分の一を占めるほか、農奴、寺社関係、土地や婚姻などの民事関係等幅広く規定されています。

 盗賊については、親の罪は子に連座し、子の罪は同居である場合を除き親に連座しないことなど、詳細に定められています。

 稙宗は初めて「陸奥守護」に任命されるなど伊達家の勢力を拡大し、塵介集を作って領内の統治を図りましたが、後に息子伊達晴宗と対立して隠居させられています。

早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)

 1500年代前半に伊豆の伊勢新九郎盛時(北条早雲)が制定したといわれています。

 早寝早起きや出仕したときの心得、読書、歌道や乗馬の勧め、火の用心等、分国法というよりは北条家の「家訓」的色彩の強いものです。

今川仮名目録(いまがわかなもくろく)

 大永6年(1526)に駿河の今川氏親(義元の父)が33箇条を制定しています。天文22年(1553)には今川義元が「今川仮名目録追加」21箇条を追加しています。

 土地に関する権利関係が多く規定されていますが、守護の権限が及ばない「守護使不入地」に関して制限したり、喧嘩両成敗や、他国との勝手な縁組を禁止するなどもしています。

 今川氏親は、父氏忠の死後に起こった内紛を、叔父の伊勢盛時(北条早雲)の力を借りて乗り切り、その後遠江まで勢力を伸ばした戦国大名です。

甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)

 「信玄家法」ともよばれ、甲斐の武田信玄が天文16年(1547)から順次制定した55条です。今川仮名目録の影響を受けており、喧嘩両成敗のほか、勝手に他国と縁組したり手紙・贈物をやりとりすることや、家臣間で盟約を結ぶこと、主君から与えられた土地の売却を禁じるなど家臣団統制の条項が定められています。

 他国からの調略や内乱を警戒していたのでしょう。

 信玄自らも法の対象となり、不備があれば貴賤を問わず誰でも訴えることができるとされていました。

結城氏新法度(ゆうきししんはっと)(結城家法度)

 弘治2年(1556)に下総(現茨城県)の結城政勝が制定し、刑事、民事など多岐に渡る分野について104条に及び規定されています。

 結城氏は鎌倉公方に仕える名門でしたが、足利義教が鎌倉公方を滅ぼした永享の乱とその後の結城合戦を経て勢力を失い、戦国時代は何とか家名を保つ小大名となっていました。

 法度には戦時における家臣統制について細かく定められ、政勝が統制に苦心していたことが窺えます。重臣への諮問を経て制定されており、大名と家臣の協約的意味合いも含んでいます。

 なお、政勝の後を継いだ甥の結城晴朝が、豊臣秀吉の養子となっていた徳川家康の次男秀康を養子に迎え跡を継がせました(結城秀康)が、秀康は後に越前へ国替えとなり、晴朝ら結城家中も結城の地を離れ越前に移っています。

新加制式(しんかせいしき)

 永禄5年(1562)から元亀3年(1572)にかけて、阿波の三好長治が制定したとされています。御成敗式目のほか室町幕府法の影響を受けており、社寺関係、訴訟関係、主従関係等多岐に渡って定められています。

 なお、長治の阿波三好家は天正5年(1577)に異父兄の阿波守護細川真之に攻められ滅ぼされています。

六角氏式目(ろっかくししきもく)

 「義治式目」ともよばれ、永禄10年(1567)に南近江の六角義治が制定したとされています。67条に及び、六角義賢、義治父子と重臣20人が起請文を交わして承認する形式となっており、家臣、領民だけでなく、大名の権限についても定め、大名と家臣の協約的意味合いを含んでいます。

長宗我部氏掟書(ちょうそかべしおきてがき)

 「長宗我部元親百箇条」ともよばれ、慶長2年(1597)に土佐の長宗我部元親とその子盛親が制定しています。内容は、民事、刑事、軍事のほか、教育や文化に関することなど多岐に渡り、喧嘩、賭博、浮気、密輸の禁止なども定められています。

 また、木材はおろか竹の子まで勝手に伐採することを禁じており、相次ぐ戦乱で畿内の木材が不足する中、木材を重要視していたことがわかります。

 長宗我部氏掟書は、分国法の中で最も新しく完備したものといわれています。

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