足利義教は室町幕府6代将軍で、幕府の権威を高めたとともにその強権政治から「万人恐怖」と非常に恐れられた人物です。
くじ引き将軍
義教は応永元年(1394)、室町幕府第3代将軍足利義満の五男として生まれました。同母兄には4代将軍義持がいます。幼くして青蓮院に入り応永15年(1408)に門跡、応永26年(1419)に天台座主となります。
義教は通常ならこのまま天台座主として一生を終えるところでしたが兄義持の死によって状況が変わります。
義持は嫡子義量に将軍位を譲り隠居していましたが、義量が先に亡くなったことで再び政務を行っていました。そして義持が後継を決めないまま亡くなったため、くじ引きによって将軍に選ばれたのが義教です。
万人恐怖
義教が将軍になるまでの経緯を簡単に説明しましたが、次に伝えられている義教の性格について紹介します。義教は「万人恐怖」と呼ばれるほど怖がられていたとのことで以下の例があります。
・有力守護大名の家督相続に介入し当主を謀殺した。
・儀式の最中に笑った公家を将軍を笑ったとして所領を没収した。将軍になる前にあることで恨んでいた日野義資(義教の妻の兄)の所領を将軍就任後に没収した。その後暗殺したと言われている。所領を没収したり追放した公家は60人とも70人ともいわれ、中には餓死した者も。
・強訴を繰り返していた延暦寺の僧を虐殺した。
・延暦寺の虐殺の噂話をしていた商人を斬首した。
・自分の意に沿わない僧日親を改宗させようと火責めや水責めなどありとあらゆる拷問を500日に渡ってかけたが屈しなかったため、真っ赤に焼けた鍋を頭に被せた挙句舌を切った。(日進は頭が凸凹となって剃刀で髪も剃れなくなり、言語も不明瞭になってしまいましたが平然としていたそうです)
ここに挙げただけでも歴代の足利将軍家でも断トツの恐怖政治を行ったことがわかります。
また永享の乱で鎌倉公方の足利持氏を滅ぼした義教は文字どおりの絶対権力者になりました。
嘉吉の乱
義教の最期は48歳の時に守護大名の赤松満祐に暗殺されますが、これも身の危険を感じた満祐が先手を打ったといわれています。
関東平定の祝宴を赤松邸で催したいとして招かれた義教でしたが、酒宴も進み猿楽能が演じられているところ、あらかじめ伏せられていた300人の兵が一気に襲い掛かり義教は討たれたのです。
猿楽が始まってから、館の裏の方から響き渡るような大きな音がして、義教が「何事か」と尋ね、近臣が「雷鳴でしょうか」などと答えているうちに、後ろの障子が開けられ隠れていた武士たちが義教に襲い掛かりあっというまに討たれたといいます。(義教の遺骸の前で追腹を切る家臣はいなかったそうです)
同席していた管領らは辛うじて逃げ延びますが、幕府は大混乱となり、満祐は悠々と屋敷を払って領国に帰ります。(後に山名宗全らに追討されます)
なお、暗殺の原因としては他に様々な俗説があるので紹介します。
・義教が、背が低く醜男であった満祐の風貌を「三尺入道」などと嘲笑したため
・義教が、愛妾にしていた満祐の妹をいじめて斬殺したため
・義教が、寵童にしていた赤松一族の貞村に満祐の所領を与えると噂されたため
先述のとおり、殺されることを恐れた満祐が先手を打ったというのが真相でしょうが、日頃からの義教の振る舞いの積み重ねが、満祐に行動を決意させたのでしょう。
織田信長の先駆者?
旧弊にとらわれない強権政治で勢力を拡大し、織田信長の政治の先駆者ともいわれますが(家臣に殺されたところ(理由)も似ていますし、何となく肖像画も似ていますね)、義教が暗殺されたことで、結局室町幕府の権威低下につながったことは皮肉としかいいようがありません。
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