「空白の150年」(空白の四世紀)は、中国正史に当たる『晋書』に記載された西暦266年の倭女王(壱与と考えられる)による西晋への朝貢から、西暦413年の倭王による東晋への朝貢の間の、中国正史に記載の無い時代のこととされています。
266年の朝貢前の倭国の状況は、有名な『魏志倭人伝』(三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条)に、413年の朝貢後のことは『宋書倭国伝』(宋書巻九十七蛮夷)にそれぞれ詳しく記載されており、中国の史書に記載された「倭」がこの間にどのように変化しているのか、その違いを確認してみたいと思います。
『魏志倭人伝』から『宋書倭国伝』の変化
『魏志倭人伝』に記載された卑弥呼の時代(3世紀)と『宋書倭国伝』に記載された倭の五王の時代(5世紀)では、「地域連合の女王国」から、「軍事力を背景にした王権国家」へと大きく変化しています。
政治体制
3世紀は女王卑弥呼による祭祀的支配で小国の連合国家であったのが、5世紀には男王による軍事的支配の集権国家に変化しています。
地方支配について、『魏志倭人伝』では邪馬台国以北は伊都国に置かれた「一大率」が統率していたとなっていますが、『宋書倭国伝』にはそのことに関する記載はありません。ヤマト王権の地方支配については、地方豪族を「国造」に任命していくことで進んでいきました。
国家規模・外交
3世紀は小国の連合体でそれぞれが半島と交易を行っており、中国の力を借りて国内他勢力に対抗しようとしていましたが、5世紀は国内が統合され、半島にも中国の権威を利用し武力で影響を及ぼす広域国家となっています。
なお中国側についても、3世紀の魏は女王国の朝貢を自らの権威付けに利用しようとしたことが窺えます。
軍事
3世紀は武器の記述はあるもののあくまでも国内での勢力争いで対外的な行動は記されていませんが、5世紀の倭王武の上表文では、
・東征毛人55国
・西服衆夷66国
・海北99国
平定など、国内をまとめ半島にも勢力を及ぼす軍事国家となっています。
風俗・文化
『魏志倭人伝』には、男子全員の入墨文化、墓に棺はあるが槨はないことなどが特徴として示されていますが、5世紀にその記述はなく、実態もありません。
邪馬台国(3世紀)とヤマト王権(5世紀)の連続性について
邪馬台国畿内説では、邪馬台国はヤマト王権の前身であるとの考え方が一般的になります。考古学上はその可能性が高いとされていますが、中国正史の記載を踏まえ比較すると、宗教観、政治体制、文化の違いがあり、また、卑弥呼が受けた親魏倭王の称号、金印、使者が受けた最大30個近くになる銀印に関する記述、痕跡がないなど、解明が待たれる課題があると考えられます。
その他、畿内又は別地域にあった邪馬台国の政治系統が一部引き継がれたとの説では、九州からの「東遷説」などがあります。
また、邪馬台国とヤマト王権は別との考えでは、邪馬台国連合は3世紀以降畿内から勢力を拡大したヤマト王権に飲み込まれたこととなります。ヤマト王権は魏志倭人伝に記載のある「女王国の東の海を渡った倭種の国」ということになり、邪馬台国連合は倭王武の上表文での西の衆夷66国に当たることとなります。
数百年に渡って議論され結論の出ない謎ですが、今後の発掘、研究で更に解明が進んでいってほしいですね。




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