明智光秀の生まれ故郷美濃に残る生存伝説を紹介します。天海僧正になったとの伝説ほどではありませんが、結構知られている話です。
山崎の合戦で敗れた後、通説で落ち武者狩りにあったとされる京都山科では、荒木山城守という家臣が身代わりとなって命を落として光秀を逃し、光秀は生まれ故郷である美濃国武儀郡中洞に落ち延びたといいます。(この伝説では同所が光秀の出生地とされています)
光秀は身代わりとなった荒木山城守の忠義を忘れないよう、荒の字を取り荒深小五郎と名乗って隠れ住み、美濃で晴耕雨読の日々を送っていたとされています。
そのまま世に出ることなく天寿を全うした、との伝説かと思いきや、約20年経った慶長5年、光秀が75歳になっていた時に関ヶ原の戦いが起こり、なんと家康に味方しようと郎党を率いて出陣したといわれます( ゚Д゚)
しかし残念ながら、9月15日、関ヶ原に向かう途中で藪川という川の激流にのまれて溺死してしまったそうです。
最後は溺死してしまったというのが妙にリアルで、何かしら伝説の元になった話があったのかもしれませんが、光秀の生存自体もあり得ないことではなく興味深い話ではないでしょうか(^_^)
なお、江戸川乱歩の小説に出てくる有名な「明智小五郎」は、明智光秀と荒深小五郎から名前を取ったとの説もあります(^_^)
明智光秀生存伝説1~天海僧正
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