どちへんなきの天野三郎兵衛
天野康景は今川人質時代から家康と行動を共にした徳川譜代の臣で、駿河興国寺藩1万石の大名となりましたが、家臣の足軽一人の命を守るためにその座を捨てた男です。
康景は今川人質時代後も常に家康の側に仕え、三河三奉行の一人として活躍し、関東入府の際には3000石を与えられ、関ヶ原の戦い後には駿河興国寺藩1万石の大名となります。
なお、高力清長、本多重次と共に三河三奉行といわれたときは、
「仏高力、鬼作左、どちへんなきは天野三郎兵衛」
(清長は寛大、重次は厳格、康景は双方バランスがよい)と評価されており、武骨な猪武者でなく、バランス感覚を持った優れた人物だったと思われます。
天野康景の改易~老武将の意地
事件が起きたのは慶長11年(1607)です。
康景は屋敷建築のために竹木を切って貯えていたところ、夜間にそれを盗む者があらわれました。
そのため、貯木場に足軽を派遣し番をさせていたのですが、ある晩盗賊が大勢現れて、足軽達を脅して竹木を奪おうとします。
数に劣る足軽達は盗賊を制することができず、やむを得ず刀を抜いて斬りかかったところ盗賊は逃げ去ったといいます。
実はこの盗賊達は幕府直轄領であった富士の百姓で、逃げる際に傷を負ったものが「天野家の足軽と口論して斬られた」と幕府代官に訴えたのです。
代官はその訴えを信じ、康景に対して「傷を負わせた下手人の首を切って渡されるべし」と伝えてきます。
康景は代官の使者に対して、
「盗賊を殺すのは古来からの定めである。賊どもは大勢で来て我が番兵が少なかったために捕らえることも殺すこともできず僅かに傷を負わせたのみで取り逃がしたことは無念である。御領の百姓などとはわかりもせず、たとえ御領の者であっても盗みなど許されぬ。我が命令にて番をさせていた足軽を殺すなどあり得ぬ」
と答えて追い返します。
これで終わらずに、傷を負った百姓が江戸から駿河へ帰る途中の家康に直訴して訴えたことから、家康は駿河に代官と康景を呼び出して対決させます。
代官は喧嘩の果てだと申し立て、康景は強盗だと申し立て互いに引かなかったため、家康は後日裁決するとして一旦両者を帰します。
その後家康は腹心の本多正純を康景の元に遣わしますが、正純は、
「傷を負った者は百姓といえども幕府の公民である。康景殿の足軽は天野家の私人である。たとえ足軽の言うことが正しかったとしても、私の義を立てると公の権威を損なってしまうので、下手人として処刑してもらいたい」
と伝えます。一見もっともらしいことを言っていますが滅茶苦茶な内容です。家康の真意はどうだったか分かりませんが、頭が切れ弁も立つ正純は、頑固な老人を宥めて事をさっさと事を収めるようなつもりだったのでしょう。
これを聞いて康景は、
「いくら身分の低い足軽といえども罪の無い者を殺せるか。足軽を殺さなければ御政道の妨げになるというならば、わしが罪を受けるのでどうとでもすればよい」
と答え、正純を追い返した後、いきなり一族を引き連れて興国寺城を出奔し、小田原の西念寺に隠遁したのです。(小田原は興国寺の近くであり、当時の領主は本多正信・正純親子と反目する大久保家です。)
勝手に出奔したことで天野家は改易処分となり、康景はそのまま6年後に77歳で死去します。
家を守るためには多くの人命が軽視されていた時代でしたが、康景は足軽一人の命と自分の信念を守るために大名の地位を捨てたのでした。
その後、寛永5年(1628年)になって康景の長男康宗は赦免され1000俵を与えられ旗本となり、康宗の孫康命の代には1000石の知行に加増され存続しています。
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