江戸中期の久留米藩主有馬則維に関する逸話を紹介します。ちなみに久留米藩主の有馬家は、キリシタン大名であった肥前有馬氏の系統ではなく、赤松家庶流の摂津有馬氏の系統です。
則維は豪快な人物だったようで、当時の慣例として国主大名であっても徳川御三家の屋敷を訪問した際は佩刀を渡して無刀になって上がり込むこととなっていたそうですが、則維はお構いなしに刀を帯びたまま玄関を通り過ぎ慣例を破ったため、以降他の大名も無刀になることはなくなったといいます。
則維は享保14年に隠居して唯翁と号して品川の下屋敷に住まいを移したそうですが、屋敷に二間四方もの巨大な手水鉢を特注して備え付けていたそうです。
則維の避暑に関する逸話を紹介します。
出入りの能楽師父子が江戸屋敷の則維に暑中伺いに参上したときのことです。則維が引見するというので父子は御居間まで罷り出たそうですが、その御居間は海に臨んで房総の山々を見晴らしに開け放ってある豪華なところで、居間の中央には高い座席が設けてあり、何と則維は素っ裸で緋縮緬のふんどし一丁で座っていたそうです。
座席には豪華な梯子がかけてあり、薄く透き通った絹の着物一枚のみを着た侍女が梯子を昇り降りしており、父子は度肝を抜かれて、とにかく型通りの御機嫌伺を口上したあとは平伏したまま頭を上げることができなかったといいます。
何とか慌てて退出したそうですが、涼しいはずの吹きさらしの居間であったにもかかわらず、汗びっしょりになってしまったそうです。
豪快な性格で金にも執着しなかったため、結果として久留米藩も他藩と同様に財政難に苦しんだそうですが、三代後の頼徳が起死回生の一手を打ちます。
久留米水天宮を江戸屋敷に分祀し、町人にも参拝させるようにしたのです。
その賽銭は水天宮から有馬家にも渡り、莫大な副収入を得られるようになったそうで、頼徳にあっては、ビイドロで拵えた浴槽を次の間に据えて侍女を入浴させて眺めながら酒を飲んでいたといわれます。則維の血を引く豪快な殿様だったようですね(>_<)
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