天正元年(1573)8月に行われた越前国一乗谷城の戦い(織田信長対朝倉義景)で朝倉家は滅亡します。滅亡時には朝倉家の武将たちの裏切りがみられました。ここでは、裏切った武将たちがその後どうなったかを紹介します。
朝倉景鏡
義景の父孝景の弟景高の子として生まれます(義景の従兄弟にあたります)。越前国大野郡司を務め、朝倉一門衆の中でも筆頭的な立場で、多くの戦いで義景の名代として総大将をつとめていました。
一乗谷の戦いで敗れた義景は、景鏡の勧めで越前国大野の賢松寺に逃れます。しかし、景鏡はすでに織田方に寝返っており、賢松寺を兵で囲んだため義景は自刃することになったのです。
景鏡は義景の首級を信長に差し出したことで降伏を許されます。旧領の大野郡を安堵された景鏡は信長から一字を拝領し、土橋信鏡と名を改めました。
しかし、天正2年(1574)に、桂田長俊を滅ぼそうと富田長繁が起こした一揆が越前一向一揆に進展します。一揆軍の大将杉浦玄任は2万余の軍勢を率いて、織田家の家臣になっていた溝江長逸、富樫泰俊らを討ったため、信鏡は城を捨てて平泉寺に籠りました。
そして平泉寺に迫る一揆勢と勇敢に戦いましたが討死します。信鏡の最期に関しては、わずか3騎で敵中へ突入して討死したと伝わっています。また朝倉家滅亡後間もない頃に、朝倉家旧臣の手によって書かれた(日本史学者水藤真氏による)と考えられている『朝倉始末記』によると、残された12歳と6歳の息子も捕らえられて処刑されています。
『朝倉始末記』には、「日の本に隠れなき名を改て果は大野の土橋とそなる」と詠われていたいう記述があります。主君を裏切った景鏡に対する怒りがみえますね。
自分の領地に主家を呼び寄せた上で裏切るのは、甲斐武田家滅亡時の小山田信茂の行動と似ていますが、信茂は勝頼を殺害してはいません。その点、義景を自刃に追い込んだ上に、その妻子まで捕らえて敵に差し出した信鏡の最期が悲惨なのも因果応報といえるのではないでしょうか。
前波吉継
吉継は朝倉家の奉行衆前波景定の次男として生まれます。景定は足利将軍家への申次を務めるなど朝倉家の重臣の一人でした。吉継は当主であった兄景当が織田信長との戦いで戦死したため、家督を継ぎ、父や兄同様に奉行衆として朝倉家に仕えます。
しかし、元亀3年(1572)に信長が浅井長政の小谷城を包囲していた際、浅井の援軍として派遣されていた吉継は信長の本陣に投降してしまいます。この内応の理由には諸説ありますが、真相は不明です。
そして、翌年の織田軍による一乗谷城攻めでは案内役をつとめ、朝倉家滅亡に一役買っています。この功績により信長から越前守護代に任じられ、名前も信長から一字を貰い、桂田長俊と改めました。しかし、同年に眼病を患って失明しています。
さらに天正2年(1574)、同じ朝倉家の旧臣であった富田長繁が吉継との待遇差に不満を抱き、領民を扇動して一乗谷城に攻め込みます。戦いに敗れた長俊は殺害され、翌日には長俊の母・妻・嫡男も捕縛され殺害されています。
『朝倉記』では失明や死亡した理由を「神明ノ御罰也」、『信長公記』でも「大国の守護代として栄耀栄華に誇り、人々に対して無礼であった報い」と記されており、相当嫌悪されていることがわかります。ある意味、最初に朝倉家を裏切り、滅亡のきっかけを作った男といえるのではないでしょうか。
富田長繁
長繁は朝倉義景に仕えていた武将です。しかし、前述の前波吉継と同じく、信長が浅井長政の小谷城を包囲していた際、長繁は吉継に続いて信長の本陣に投降してしまいます。
天正元年(1573)8月に朝倉家が滅亡すると、長繁が越前府中領主、桂田長俊(前波吉継改め)が越前守護代に任じられます。
しかし、この長俊との待遇差に不満を抱いた長繁は、領民を扇動して一乗谷城に攻め込み、長俊を殺害し、翌日には長俊の母・妻・嫡男も捕縛し、殺害します。
さらに勢いづいた長繁は織田方の代官所となっていた旧朝倉土佐守館を襲撃しましたが、安居景健、朝倉景胤の説得を受けて攻撃を中止し、代官を追放するだけにとどめています。さすがに信長の代官を殺害するのはまずいと思い直したのでしょうか。
この後、なぜか朝倉旧家臣であった魚住景固を警戒し始め、景固とその次男彦四郎を朝食に招き殺害した上、その居城である鳥羽野城を攻撃して魚住一族を滅ぼしました。
景固は領民に慕われていたため、このことは民衆の反発を招き、旧朝倉家臣たちも警戒して長繁と面会することすら避けるようになったといわれています。
一時的に越前国を支配下においた長繁でしたが、弟を信長に人質に差し出し、越前国の守護職を信長に認めてもらおうとしているという風聞が立ちます。
一揆勢は織田方と敵対したと思っていた長繁が織田方に裏切ったということで、長繁と手を切りました。そして、一揆勢は長繁の代わりに指導者として、加賀国から一向衆の七里頼周を迎えます。
そして、一揆勢14万が越前の各地で長繁を討とうと挙兵し、府中の長繁も包囲されます。しかし長繁はこの包囲網を手勢700人余りで突破することに成功したのです。敵中突破に成功した長繁軍は、2000〜3000余の首級を上げるという成果をあげます。
その後も一揆勢との戦いで勝利した長繁でしたが、今度は一揆勢との戦いで傍観に徹し、兵を進めなかった旧朝倉家臣の安居景健、朝倉景胤が籠もる砦に攻めかかります。しかし、無理な戦を仕掛ける長繁に家臣たちの不満が募り始め、合戦の最中に味方である小林吉隆に裏切られ、背後から鉄砲で射殺され首を取られました。享年24歳でした。
長繁は武勇に優れていたのは間違いありませんが、味方にも突然攻めかかるなど、無謀な行動を繰り返したことで、このような最期を遂げることになったと思います。
魚住景固
魚住家は播磨国守護赤松氏の庶流で、赤松氏の被官でしたが、景固の曽祖父の代から朝倉家に仕えていました。景固は朝倉義景に仕え、奉行人として活躍しました。
永禄11年(1568)に足利義昭が一乗谷を訪れた際には、年寄衆の一人として名がみえます。越前国内での反乱鎮圧や織田信長との戦いに参陣しましたが、元亀元年(1570)の姉川の戦いでは、軍令に背いて兵を動かそうとせず、静観していました。
そして、天正元年(1573)の一乗谷城の戦いで朝倉家が滅亡寸前まで追い詰められると、信長に降伏します。降伏の際には嫡男の彦三郎を人質に出し、さらに織田軍の道案内役も務めて、所領を安堵されます。
しかし天正2年(1574)1月14日、富田長繁から朝食に誘われた景固と次男彦四郎は、長繁に謀殺されました。翌日には景固の居城である鳥羽野城が攻められて、魚住一族は滅亡することになります。
景固は最後の最後で朝倉家を裏切りましたが、なかなかの人格者だったらしく領民には人気があったそうです。その景固を理由も無しに殺した長繁は、のちに一揆衆から見限られ討たれることになります。
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