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奇兵隊士の回顧談~北越・会津戦争~『維新戦役実歴談』から

 明治維新から50年後、維新50年を記念して、戊辰戦争に従軍した人々から回顧談を集め「維新戦役実歴談」として編纂されました。

 今回はその中から、長州奇兵隊士として北越から会津にかけての戦争に従軍した小島荒一という人の回顧談を紹介します。

北陸方面

 慶応4年4月23日、北陸鎮撫総督が越後に赴かれました。この時私は長州奇兵隊3番小隊に属して、越後に出征いたしました。

 鯨波(くじらなみ:現新潟県柏崎市)の方が三好軍太郎さん、小千谷(おぢや:現新潟県小千谷市)の方が時山直八さんが向かって、27日の早朝から戦が始まりました。その日は勝敗無しの引き分けで、奇兵隊の中では一人負傷しましたが、戦死者はいませんでした。

 それから一日おいて鯨波で戦争がありました。戦争があった所は米山峠という峠で、それから柏崎の方へ海岸を通り押していきました。それから進んで椎谷(しいや:現新潟県柏崎市)の陣屋を落としました。これは与板(よいた:現新潟県長岡市)の手前で1万石の大名でした。山の中で度々戦いがありましたから一々日は覚えていません。

 それから長岡の方へ進んでいくには妙見坂(朝日山)の台場を落とさなければ行けません。この台場は特に地の利を占めておって誠に官軍にとって頗る割の悪い所でバタバタと討たれる始末でした。

 この時に時山さんは、一番の台場を落とし二番の台場を落とし三番の台場を落としかけたときにとうとう討死しました。その時は激しい戦いでヒューヒュー弾丸が来るので屍も取ることができませんでしたが、後で取りました。

 その時山縣公が非常に残念がられて自分も進んで討死するといわれたのを、滋野謙太郎さんが無理やり引き留めましたのでようやく止めました。6,7日間昼夜無しに戦いました。

 それから長岡の方であります。これは千曲川(信濃川)を渡らなければなりません。この川は直径16丁もあり、向こうは川筋を台場にしており、こちらは薩州、長州、加州、尾州、信州の諸大名が台場を築きました。

 そこへ三好さんが参謀で奇兵隊が40人、榊原さんの臼砲隊が7人、都合47人で川を押渡ろうとしましたが、毎日の大雨で川は溢れるばかりの大水でありました。

 しかも船は大概向こうへ取られてしまって船が9艘しか残っておらず、それも一艘に8人位しか乗れない。三番小隊がその船に8人乗って川の中程まで渡りましたところが、小銃の弾丸がヒューと鳴って続いてくる、弾丸が落ちる、刀の鞘に当たって止まるという様でした。

 さらにまだ岸へ上がらぬうちに大砲を撃ち始めた。その大砲の弾丸が船の側に落ちたり、またはかすっていく。その弾丸の勢いを見て船頭がこれはならぬと言って元出た川岸へ着けて船頭が逃げてしまいました。

 そこで論判が始まりました。これは面白い話で、三好さんがどうでもこうでも押し渡ると言い、兵士の方は一人も渡らぬと言います。

「あなた方は我々の言うことが聞かれませんか」「聞かれませぬ」その理由は、向こうは何万居るか分からぬ。それをわずか三十人、四十人が渡ってもダメだ。余り無謀な戦争はするなという論であります。

 我々は決して命を惜しむとか臆病で言うのではないが、なるべく十分の働きをして命を捨てるというのです。

 すると隊長の堀潜太郎さんが、皆さんの言うのはもっともだ。これはちょっと引き上げてしまおうと。三好さんも折り合ってやむなく引いてしまいました。

 ところが夜になりまして、薩州の方では今夜は17日の月で昼と同じだから渡られぬと言いました。こちら(長州)は夜になりまして昼とは違うからこれからやってやれというので、隊の方から揃って押し渡ろうというので三好さんが大いに力を得て、「今お聞きのとおり兵士の方から言うて来たから少人数でも渡ります。あなた方は渡るも渡らぬも御勝手になさい」と言って薩州と別れたのです。

 それから丁度夜明けに渡りました。少人数であるからなるべく同じ所へ着けろと船頭に言ったが、川の中程から先は水勢に任せて向こうへ着けるので一町や一町半は分かれ分かれになっても仕方がないと船頭は言いました。

 向こうへ着きますと土手の下には着かず5,6間は沼で腰まで入る。そこを鉄砲を担いで分かれ分かれで一人二人と土手へようやく上りました。

 土手へ上って中を見ると、台場の中に三本木を立て薬缶をかけて火をコトコト焚いておりました。両方からズッと入っていくと「誰かきたな」というあんばいで自分の味方だと思っていたので一気に3人を斬りました。

 そして大砲を下ろして砲車をぐるりと回し長岡の城の方へ向けてドンドン撃ち始めました。弾丸がないかとその辺を探してみると土手の下に穴蔵があって12,3発の弾丸がありました。

 まだ夜が明けず、そこで百姓家幾軒にも火を付けました。そのときの混乱というのは非常なもので、背中から背中に引っ付けて鉄砲を撃つ、刀で突くという有様でした。

 先へ進んで夜が明けてくるとここにもそこにもぶらぶらしている侍が居ました。奇兵隊の河内山源五郎という者が、敵が3人降参するというからその降参兵に向かって抜刀を額に当てました。すると向こうが打ってかかってきました。丁度雨が降って道が悪かったから河内山は仰向けに引っくり返ったうちに、松野という者が大袈裟に後方から斬って終わりました。後で河内山は「こちらは冗談でしたのに向こうが本気にした」と言っておりました。

 それから皆連絡して一緒になって、長岡の城が落ちたのは午後4時頃です。長岡の城下に進むまでに堤があり、そこでしばらく撃ち合いました。城下で竹井という者が撃たれ即死したのを長鳶が運ぼうとしているうちに又その長鳶が撃たれました。それが腰を掴まえて離さない。「私は一天万乗の君様のために撃たれて死ぬ。どうか首を斬ってくれ。それでないと極楽往生できぬ」「いや病院に行けば治るから」と言うて聞かせてそれを振り切って進みました。

 そうすると敵は大軍と思ったか、やがて長岡の城に火が上りました。それから薩州も段々と渡ってきました。とうとう城の落ちるころには妙見峠の方も長州が一大隊、薩州が一大隊進んできました。

 それから長岡の城が落ちて、森立峠の方へ薩州と長州が堂々と大隊を立てて進みました。正午になったから途中で酒を飲み弁当を食っていると、堀さんと三好さんが「いや昨日は皆さんの言うことを容れて昼間あの川を渡らなかったために勝利を得られた」と言うて大いに喜び褒められました。話をしながら山の上を見ていると、殿様はじめ家中の男女子供が皆ゾロゾロと森立峠を越して行くのが蟻の這うように見えるから、それへ大砲2,3発撃ち放ってやりました。

 奇兵隊の宇佐川という者が敵に突如出合って頭を押さえつけられました。頭を押さえつけられながら敵の刀を抜き取りましたので、向こうは手を放して逃げた。それを後方から向こうの刀で斬ってしまいました。

 それから翌日私は森立峠を登って行きました。諸藩の大隊もどんどん入り込んできました。そして大砲を撃ったのが大変良かった。森立峠の上へ守りを付けるつもりであったのが、官軍が近づいたと思い守りを付けませんでした。そして私共は森立峠へ行って官軍の台場を築きました。

 長岡が落ちてから敵は度々逆襲してきました。それで毎晩一台場、二台場官軍の兵が敗れます。その敗れるのはどういう兵かというと、いつでも尾州、加州、その他の藩でした。

 長州の台場の隣は加州、その隣は尾州、その先は薩州という様に台場が交わっている。それを向こうでも探知すると見えて、薩州と長州の方へは決してやってきません。いつでも加州と尾州その他の藩へ来るが、これが敗れる。

 どうもそういう具合であるから私共三番小隊が3人程監督を言いつけられて、私は大野という者と2人加州の方へ行きました。そして加州の隊長へ「この台場を守ろうと思えばあの山の上に台場を作らなければいけぬ」と言うと、「あの山に敵が登ればこの台場より雀を撃つように討ち取ることができる」と申したゆえそのままにしておいたのです。

 すると敵は夜明け頃急に臼砲を上げて兵を十間位に一小隊位に見えました。そして山の上から散兵にて発砲してきます。こちらは低い台場の中に多人数居るから怪我人が沢山出ました。

 そこで私は「加州の台場はこれから出て向こうの山へ登れ」と言って、さあお出なさいと抜刀して指揮し台場から押してドンドン登っていきます。こちらは登る、向こうは上から撃つのですからここでも怪我人が出る。しばらく撃ち合ってようやく敵を追い散らしました。

 そうすると右手の方から信州の飯田の兵がどんどん帰ってきて「一の台場、二の台場も取られました」という。あそこを取られますと長岡を取られてしまう。そこですぐさまその兵を追い返して台場を取り返して又下へ敵を追い下してしまいました。その時飯田の小隊長が討死しました。

 それからしばらく7日位森立峠に居りました。すると加州の台場の前に宵にコソコソ来た奴がいる。大野と私が居ると侍が一人そこへ登ってきました。「誰だ」と声を掛けると、「米沢藩」と言っていきなり抜いて斬りかかってきました。

 大野が鉄砲で受けて鉄砲が半分ほど切れ、そこで私は肩先からそれを斬りました。すると鬨の声を上げてバラバラ台場へ上ってくるのをはしから斬った。夜が明けてみると台場の下で8,9人死んでおりました。

 それから5,6日経って今度半蔵金(はんぞうがね:現新潟県長岡市)の方へ行く間に鬼ヶ岳という高い山があります。その向こうの山の絶頂に敵の台場があるからそれを取らなければ本堂へ進めない。そこで鬼ヶ岳へ山縣さんの率いる三番隊一小隊が日の暮れないうちから登り始めました。

 案内者が2人付いており、この山は昔から土地の人でも一人も登った者がないという山で甚だ困難な道で、木が逆さに生えて上へ上っている。木の根を掴まえて登ると雨降り後であるからすべって下に転げる。それをようやくにしてとうとう翌日に山の八合目に行ったときに本道でドンドン大砲を撃ちあっていた。後からもう一隊上げたそうだがついに登ってきませんでした。

 ようやく絶頂に登って敵の台場を見ると僅か12,3人しかおらぬ。そこで鉄砲が届くか届かぬか連発でやってみよう、連発で撃ったところが届いたと見えてどんどんその兵が逃げ始めました。

 逃ぐるぞ逃ぐるぞと言って鬼ヶ岳を降りてその山へ登った。そこに怪我人が一人逃げ損なっておりそれを斬って、その他の者は追い散らしました。そこへは守りを置いて私は長岡に帰ってきました。

 それから見附(みつけ:現新潟県見附市)へ進みました。見附へ進むと杉の森の戦争が6月1日と思いますがその見附と杉の森の間に官軍の小荷駄方があり、それを村松の兵が襲いました。その時、奇兵隊の能美の兵が向こうから登る、こちらからも登る、能美の兵が先に登って旗を出すと知れるから手拭を出して招いた。味方だと思って敵の兵は息を切って登ってくる。上では刀を抜いて待っている。その時に宇野友治が十何人か斬ったがその時に能美さんは腰を撃たれました。敵は一小隊綺麗に死にました。

 私共は能美さんと進んでこの山へ行き。報国隊はまた上の山へ行って三番小隊と同士討ちをやったがすぐに分かった。捕虜が3人ありましたが面倒だから斬ってしまいました。戦争が済んだ時分に2人村松の兵が迷っていたのを能美さんの隊に斬られた。その捕虜の話で戦争には今日初めて出たということが分かった。捕虜は降参するから助けてくれと手を合わせて拝むのを面倒くさいとやっつけてしまった。

 それから見附を引き上げてその翌日今町という所へ敵が回ったというのでこの方面へ三好さんが行った。これはひどい戦でした。私共が今町の寺へ入って行って弁当を食っていると野戦砲を寺へ撃ちつけられました。そこにも川があって、これが本道でこっちの方に中島という所がある。三番小隊を二つに分けて、本道へ半隊、中島へ半隊わけたが、向こうが中々大軍でした。

 私の方は中島だから逃げ場がない、本道の方からは土手の上からもう引こうといって中島の方へ声をかけたが戦争中で聞こえませぬ。堀潜太郎さんは中島で怪我をしました。奇兵隊で5,6人怪我人ができ、即死が一人出たが田の中で死骸が取れなかった。

 向こうが強くなってくると次第に官軍の方が弱くなってくる。そうすると信州の上田の半小隊が応援に来ました。それでも中々やりきれぬ。あなた方はここに居れ、私は本道へ行って見て来ると言って中島の橋を渡って本道へ出ると「今日は良い塩梅にいったな」と言いながらどんどん小隊が入ってきました。丁度日没頃で、互いにすれ違ったのが皆五段梯子の肩印でいずれも長岡藩であったのですが、味方と思って気付かれなかったのが幸いでありました。

 それから中島の橋の所へ戻り早足で味方の兵が居った所へ行って、どうしても逃げ場がない。後方は皆敵だ。どうもしょうがないから、私の考えではまず鉄砲を撃って抜刀で斬りまくって逃げられるだけ斬り抜けていこうと言いました。

 ところが上田の隊長が言うには「それは至極よろしい。ただし私共は地理が誠に不案内であります。どうかあなたに指揮を願いたい」「よろしいそれでは指揮をしてあげよう」と言うて抜刀で行った。しばらくすると敵の行列のあとの方で太鼓を叩く間へ出ました。そこは元官軍の本陣であったが今は取られて賊の本陣だ。すぐに脇にそれて川の方へ行きました。

 そうすると見附へ渡る渡し船が丁度こちらへ着いている。それからその船に残らず乗って向こうへ漕いでいった。向こうの土手に敵が居らねばよいがと思いながらようやく船は向こう岸へ着いたところ、我先にと片方へ寄ったものゆえ船が引っくり返りました。びっしょりになって上ったが誰も怪我人はない。それから土手へ上がって向こうの形勢を見ると一小隊ドッドッと駆け足でやってくる。「何処か」という声を掛けたら「薩州」と答えた。「そっちは何処か」「長州」と答えました。

 それからドンドン上りました。「あなた方は長州の三番隊ではありませんか」「左様、私共は長州の三番隊であります」「三番隊は残らず討死してしまうから応援に行けと本陣の命により参りました。残っている兵はありませんか」「ありません」と答えると「薩州の十番隊、ここにて殿を致しますから心静かに見附へ御帰陣あれ」と言った。それから見附へ出た。そのとき、今日は残らずやられたに違いないと皆話し合うていたところでしたからよく帰ったと大喜びでした。

 その晩であります。この見附はどうしても持ち切られない、長岡へ引き上げるということになったが、長岡へ帰るというと土地の者が力を落とすから「先へ進む」と言って皆長岡へ引き上げてしまった。

 それから大黒という所がありますが、ここで加州の槍隊が敗れた。長州の干城隊が長岡へ着くと、その晩にこの方面へ出された。地理も知らず今夜着いたばかりで出すのは無理だという者もあった。がすぐに出されましたが干城隊が行って盛り返してしまった。それが7月24日であります。

 25日が総進撃というので、24日の夜明けに皆繰り出して行き、大黒を賊軍と争った。こちらはどの兵が帰ってくるかと思って賊軍とは気付きませんでした。

 それは大黒の付近に大沼がある。賊軍は竹の梯子を二本も三本も拵えて、通っては又前へやるという様にして三百人渡ってきた。沼を頼りに番兵がいなかった。それを向こうでは知っていたから渡ってきました。それが三百人整列して官軍とすれ違いにどんどんやって来て官軍の後を追うて長岡の城下へ入ってきた。四条総督の本陣へ来て連発した。25日は大進撃というのだから病院に居る負傷者重病者は他所に移して開けっ放しになっていました。その病院へ火を付けたから大騒ぎで、官軍の兵は皆出陣して一人も居らぬ。そこへ入ってきました。城はありませぬが、焼跡へ入ってきて城を取り返したと騒いで喜んだ。

 それから官軍の方は仕方がない、妙見峠へ登った。それからしばらく休戦でありました。それが7月25日の戦争であります。

 それから官軍が新潟へ上りました。新発田の兵が6小隊賊軍に付いていたが、それが官軍と一緒になったので、これから難なく会津へ押して行きました。新発田から会津まで18里、その間の宿々を皆焼いていった。

 それで二万位の兵であったろうか、握り飯が届かぬ、雨が毎日降る、俵の中に握り飯を入れて梅干しと味噌が皆真っ黒になっている、実に食われたものではない、それでも食わなければ倒れるから食いました。

 会津へ行く手前に西寺という所がある、ここの戦がまたひどい。西寺へ行ったとき、兵糧蔵の御米を会津の二小隊が取りに来たということを名主から官軍へ訴えてきた。ソレ進まにゃならぬというので薩州が先へ進んでいった。ところが川がある。一小隊船へ乗って川を渡ったが、一小隊はあとに残った。それは船を乗りっぱなしにしたから渡ることができぬ。官軍は後方からやってきたが、船が無いので戻った。

 それがひどい戦で、散り散りバラバラあそこでも3人、ここでも3人と斬り合っている。私共もその側の山へ行ったが、一間半ばかりの谷川があってそこへ下ることができぬ。腰掛けて見ていると、三十人残らず討死した。

 それから川を渡ると向こうは何十町という原で何もない。それから進んでいくと、会津の城から一里ばかり手前に今町という所がある。そこに水戸の兵が賊軍の方に居る。こちらにも京都から来た水戸の兵が居る。これは京都にいる水戸藩が伏見の戦争時に疑いを受けて出陣することが出来ず、疑いが晴れたから遅れてやってきた。まだ一度も戦ったことがないというから戦わした。そこで水戸同士で戦ったところが官軍の方の水戸は大敗してしまった。

 9月17日は総進撃で豊前の小笠原、大村など皆総進撃でたくさんの兵が今町という所を取り巻いたが、向こうは幾らか台場がある。こちらは何もない。田の中を通って行ったが、向こうが鉄砲を撃つと稲へあたって刎ねあがるという風で、どんどん進んでいくとこれはすぐに落ちました。そこで城へ入る鑑札を持っている医者が一人捕まって、ここで首を斬ってしまいましたが、馬が三匹と刀が沢山ありました。そこが落ちると会津の城ばかりで他に何もない。今町の兵は城へ入ったかといえばそうではない。日光口へ落ちたそうであります。

 それから会津の城は二の郭まで攻め込んで、三の郭は本城でしたが、確か9月の21日と思う、いよいよ本城へ討ち入るということで何しろ行って見るとずっと竹矢来がしてある。官軍の方にも垣がしてあって鉄砲を撃つ。

 そこで奇兵隊はこれまでずっと先鋒をやってきた、いよいよ城攻めになって外の藩に先鋒を取られては残念だから、どうでもこうでも先鋒をやるという先鋒争いで、一小隊、二小隊、三小隊皆討死するつもりでむやみに斬り込むという了簡であった。ところが私共三番小隊へ先鋒がきた、それから皆大喜びであった。ところが22日に降参旗を立て降参になった。又それで喜んだ。先鋒争いをしたがこれはまさに死にに行くのであったが、降参すれば命を捨てるようなことはない、それでいよいよ凱旋となったが、私共が一番早かった。今度は陸路木曽路を通って京都へ帰った。三番小隊40人出たが、負傷したり戦死したりして無事に12人残って京都へ帰った。御所へ御旗を納めてそれから私は郷里の山口へ帰った。

【参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
『維新戦役実歴談』(維新戦歿者五十年祭事務所)