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江戸・大名の生活~大名行列・参勤交代・江戸登城の現実

 前回(大名の食事・入浴・奥方)に引き続いて、最後の広島藩主であった浅野長勲侯爵が大名行列、参勤交代、江戸城への登城などについて維新後に語った内容をそのまま紹介します。

大名行列

 国元で通行する時には、道に面した窓は閉めさせ、「入れ、入れ」との掛け声で道に人が出ることは無かった。改革(維新?)後では道に人が出てもよくしたが、「下に居れ、下に居れ」との掛け声で土下座して居た。
 番所の前を通過するときは供頭から番所役人の名を紹介されるので、籠の中から声を掛けた。
 江戸では供の人数がすこぶる多くなるので、人々の通行の邪魔にならないよう行列の途中途中で区切って横切ることを許した。
 大名同士ですれ違うときは面倒なもので、先頭の者が相手行列の目印を確認し、互いに〇〇様、△△様と名を披露した上で、双方が籠の戸を開けて黙礼する。名を間違うと大変なので、先頭の歩行小姓はとても気を遣って目印を記憶していた。

大名の物見遊山

 大名は何処にも遊びに行くことはできなかった。船に乗ることは一切できないから、隅田川に船を浮かべて遊ぶということもできず、芝居も見物することはできなかった。
 駕籠が興行場や遊女町の前を通る時は駕籠を高く上げて駆け出して通行する。これは穢れたる場所を急いで通り抜けるとの意味であった。

参勤交代

 途中の宿は陣屋として扱うので本陣と呼ばれた。武器を備え付け夜でも寝ないのが通例であり、次の間で小姓が本を声高に読むのでやかましくて実際に寝られない。誰も寝ていないことを周囲に示すためにこのような形式が取られていた。
 一駅(宿場)ごと借り上げ、表札を駅外れに立てて中には旅人も立ち入らせないようにした。宿の予約は一年前から役人が手配し、他の大名と鉢合わないよう調整した。

大名の江戸登城

 長裃を着けて登城するときは、長袴の裾を巻上げ膝頭をむき出しにして駕籠に乗っており、冬はとても寒かった。
 供の者は更に大変である。下馬先(江戸城大手門先)までは供を立てて行くが、それから供が減ずることとなるので、供廻りは主人が帰ってくるのをそこで待っていなければならぬ。野ざらしにゴザを引いて姿勢を崩さずにちゃんと待っていなければならなかった。
 下馬先より先は先箱1つ、供頭1人、草履取1人だけである。御殿の玄関に着くと屋敷から別途回してあった刀番が居り、長い方の刀を預ける。刀番は主人が退出するまで刀を持っていなければならず大変な役目であった。
 玄関に入ると大名1人になり供はいない。長袴を下して入っていくが、そこには御城坊主が居て色々用事を頼むことはあった。
 大名の詰所では、大廊下詰の上の間が御三家(尾張・紀州・水戸)御三卿(田安・清水・一橋)であり、下の間が徳川家縁故の者であった。
 当家(浅野家)は大広間詰であり、茶が出るわけもなく冬でも火鉢一つ置いていない。この間には上杉、伊達、島津、毛利、山内、池田などの諸大名が端座していた。
 席の順序は位階ではなく中将、少将、侍従といった官の順序であった。次の間には無官の四位、四品の者が居た。宇和島(伊達)、津軽、前田分家などの席であった。
 毎月の1日、15日、28日、五節句の日に登城したが、大名に対して政治の諮問をされることはなかった。ただ明治維新の前に限って外交問題について各藩の意見が聞かれたが、これは各藩から上表されたものである。
 五節句の時には時の将軍が高座に上って半分簾を垂れて居る。次の間には老中が控え、大名が出ると「安芸」などと披露して平伏する。「安芸守」などとは言わずに呼び捨てであった。これは三代将軍のときに君臣の義を結んだので詮方ない訳である。将軍には太刀馬代や特産品を献上した。

大名の生活について

 いかがだったでしょうか。大名は借金だらけの財政や領内の統治について悩むだけでなく、しきたりに縛られた日常生活も案外大変だったのでしょう。
 大名の中には暴君や不誠実な者もいたでしょうが、浅野長勲侯爵は元々分家の出で世情にも通じており、とても真面目な大名だった印象ですね(^_^)
参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
平野書房)
江戸・大名の生活~食事・入浴・奥方の現実
江戸時代の大名の生活に関して最後の広島藩主であった浅野長勲侯爵が語った回顧談を紹介します。
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