土井利勝の生涯
土井利勝は江戸時代初期に大老となり家康の隠し子という話が伝わる人物です。
利勝は元亀4年(1573)に水野信元の庶子として生まれました。天正3年(1575)、信元は武田方と内通した疑いをかけられ、信長の命により家康家臣の平岩親吉によって殺害されます。これは信長の重臣佐久間信盛の讒言という説が有力です。
信元の弟の子孫には享保の改革で吉宗を補佐した忠之や天保の改革を行った忠邦がいます。
利勝の命は助けられ、家康の家臣である土井利昌の養子となっています。幼少時から家康に仕え、秀忠が誕生してからは秀忠の側近となります。
文禄4年(1595)7月に秀次事件が起きた際、京に滞在していた秀忠は秀次に招かれますが(人質にしようとしたとも)、危険を察知した利勝は大久保忠隣と計らい、秀次を避けて密かに伏見に移らせることとします。この時、伏見の大路を行くか、間道を密かに行くかどうするかと話になった際、利勝は「間道を行けば世の笑い者になる」と大路を進むことにしたそうです。
関ヶ原の戦いでは、秀忠軍の将として信州上田城攻めに参加し戦後加増を受け、その後慶長7年(1602)には下総国香取郡で1万石を与えられ、ついに大名に列します。
秀忠、家康の信任が厚く、その下で活躍を続け、慶長13年には下総国佐倉3万2400石に加増、また、老職(老中)に任命されるなど順調に出世を重ねます。
元和9年(1623)秀忠が家光に将軍職を譲ったあとも変わらず幕政の中心であり続けました。
松平忠輝や本多正純の改易にも携わったといわれ、当時幕府中枢にいた金地院崇伝でさえ「今はだれもかれも大炊殿(利勝)へ頼み入るようになった」との言葉を残しています。
寛永10年(1633)には下総国古河16万2000石に加増移封されます。寛永15年(1638)に大老になりますが、これは名誉職の意味合いが強かったみたいです。
徳川家康の落胤?
家康の落胤という話ですが、これは後世に言われ始めたわけではなく、当時から噂があったようです。徳川家の公式記録である『徳川実紀』にも落胤説が記載されているから驚きです。
『寛政重脩諸家譜』には、利勝が生まれたときに家康から相州廣正の短刀を与えられたと意味深に記されています。
また利勝は家康に似ていると言われることを非常に嫌ったといいます。髭を蓄えた姿が家康に似ているということで、わざわざ剃ったとか、、、
トントン拍子に出世して最後まで失脚しなかったことから落胤と言われたのでしょうが、家康の従兄弟と考えると準徳川一門みたいなものなのでそこまで不思議ではないような、、
家康もわざわざ隠す必要はないので個人的には落胤では無いと思います。無実の罪で殺してしまった伯父水野信元への罪滅ぼしとして引き立てた上に、利勝が有能だったことが出世の真相ではないでしょうか。
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