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新選組十番組組長原田左之助の最期と生存伝説

原田左之助の最期

 新選組十番組組長であった原田左之助は、隊士のなかではめずらしく妻帯し子供ももうけて大事にしていたそうです。

 鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に逃れた後、隊の方針をめぐり近藤勇と揉めて袂をわかち、永倉新八らとともに靖兵隊を編成し会津へ向かいました。

 しかし左之助は周囲の説得を聞かず途中一人で江戸に引き返します。江戸を経て京都にいる妻子の元へ行きたかったといわれています。

 ところが主な街道は官軍に抑えられ京都に向かうことは困難であったことから、行き場を無くした左之助は彰義隊に入り、上野で官軍と戦うことになります。

 彰義隊は官軍に惨敗し左之助も重傷を負って間もなく亡くなったそうです。

 会津へと向かった永倉新八はその後大正時代まで生きていますので、そのまま永倉と行動を共にしていたら左之助も妻子の元へ帰ることができたのかもしれません(´Д⊂ヽ

※ただし、坂本龍馬暗殺現場に左之助のものとされた刀の鞘が残っていたことや、犯人が四国弁を使っていたとの情報から(左之助は伊予出身)、当初土佐藩士からは左之助が暗殺犯と目されていたため、捕まれば処刑されていたかもしれません。

原田左之助生存伝説

 戊辰戦争から約20数年経過した日清戦争の時、新選組のことにとても詳しい老軍夫がいたそうです。話の内容から「あなたは原田左之助さんでは?」と聞かれても、否定も肯定もしなかったそうです。

 新選組で生き残った隊士は名を変え身分を偽り明治の世を生き抜いており、ひょっとしたら左之助も死を偽って生き残り、妻子とともに暮らしたのかもしれませんね。 

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