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豊臣秀長~天下人秀吉の弟

 天下人・豊臣秀吉には、天下統一事業の実現を陰で支えた豊臣秀長というサポート役がいました。秀長は秀吉の3歳下の弟で、政務や軍事面で卓越した働きをみせ、天下統一を目指す兄の隣で諸大名との調整役として、豊臣政権にとって大きな役割を果たしました。今回の記事では、秀長がどのような武将だったのか、またその子供たちを紹介します。

秀吉の弟として誕生

 秀長は天文9年(1540)、豊臣秀吉の弟として尾張国愛知郡中村で生まれました。

 母は秀吉の生母でもある「仲」で、父は再婚相手である「竹阿弥」とされています。しかし、秀吉の実父といわれている弥右衛門(やえもん)は、秀長が生まれた3年後に亡くなっているため秀吉と同父兄弟であるという説もあります。幼少時は「小竹」(こちく)と呼ばれていたと伝わっています。

秀吉の名代として活躍

 兄・秀吉は父・竹阿弥と折り合いが悪く、それが原因で秀長が5歳くらいの時に家を出て行ったといわれています。そのため、成長するまで兄との関わりがありませんでした。

 その後、秀長が25歳の頃に織田家に仕えていた秀吉の家来になったといわれています。秀吉に仕えはじめてからの秀長は、秀吉家臣団内の調整役として兄を助けました。

 秀長は秀吉が出陣した際は、その城代を任され、留守中の兄の代わりをつとめました。そして、秀吉の名代として「伊勢長島の一向一揆」「中国平定」などの戦で活躍し、天正8年(1580)には但馬有子山(ありこやま)城主となりました。

 その後、鳥取城の戦いにも参戦し、山陰道への侵攻を担当しています。

110万石の大名となる

 天正10年(1582)、本能寺の変がおこり、織田信長が世を去りました。秀長は秀吉の右腕として、山崎の戦い、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、紀州攻め、四国平定と戦います。

 四国平定では、病気で出陣できない秀吉の代わりに総大将となり、阿波に進軍しました。そして、長宗我部元親を降伏させた功績によって、紀伊国、和泉国、大和国3か国に河内国の一部を加えて、合わせて約110万石の大名となります。

 天正15年(1587)の九州征伐において秀長は、日向方面の司令官として出陣します。そして、根白坂(ねじろざか)の戦いで島津軍を破り、薩摩国へ撤退させました。この功績により従二位権大納言に任官し、大和大納言と称されるようになるのです。

 天正16年(1588)4月、秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えたときの豊臣政権内の官位・官職は、トップが従一位関白太政大臣・豊臣秀吉、2番目が正二位内大臣・織田信雄、3番目が従二位権大納言の徳川家康と秀長、4番目が従三位権中納言・豊臣秀次でした。

 秀吉からみたら、織田信雄は旧主筋、家康は旧主君の同盟者、秀次は甥ということになります。弟とはいえ、家康と同格にまで引き上げているということは、かなり秀長に期待していたことでしょう。

お金にまつわるエピソード

 奈良・興福寺の僧侶の日記『多聞院日記』によると、秀長の代官・吉川平介が紀伊国・熊野の木材約2万本を伐採した代金をごまかして着服するという事件が起きます。

 そして、このことがばれて、秀吉に報告されてしまいます。平介は処刑されますが、この事件は平介の独断ではなく、秀長の指示で実行されたともいわれており、秀長は部下の監督責任を問われ、翌正月の礼で秀吉への拝謁を拒否されました。

 天正14年(1586)の九州征伐のとき、従軍した諸大名は兵糧を自分で調達しなければなりませんでした。その際、秀長は諸大名に対し、割高な兵糧を売りつけようとして秀吉に叱られたいう逸話があります。

史料からみえる秀吉の評価

 秀吉が中国征伐で織田軍に従っていた黒田官兵衛に送った書状の中に次のような文言が記されています。
「その方の儀は、我ら弟の小一郎め同然に心安く存じおり候」
これは、あなた(官兵衛)のことは弟の秀長と同じように信頼しているという意味です。

 また、『大友文書』によると、大友宗麟が島津氏の圧迫に苦しめられ秀吉のもとにやってきた時、「内密なことは宗易(千利休)に、政治的なことは宰相(秀長)に、それぞれ相談せよ」と言ったと伝えられています。

 表向きのことは、秀長を信頼してまかせていたことがわかりますね。

秀長の最期

 兄の天下統一事業に貢献していた秀長でしたが、天正18年(1590)1月頃から病状が悪化します。「小田原征伐」には病のため参加できず、天正19年(1591)1月22日、郡山城内において52歳で生涯を終えました。兄の天下統一を見届けた後の最期でした。

 その後、秀吉の跡継ぎであった鶴丸も幼くして亡くなり、秀吉と秀長の姉・日秀尼の子秀次が豊臣政権の後継者となるのです。

 しかし、その秀次ものちに切腹して果てることになります。

 秀長の死は秀吉にとって大きな損失であり、秀吉死後の豊臣政権の崩壊につながった原因の一つといわれています。

秀長の子供たち

 秀長の正室「智雲院(ちうんいん)」については、出自を伝える史料が存在していませんので、人物像などもはっきりわかりません。また、側室の「興俊尼(こうしゅんに)」は、大和国の国人の娘で法華寺の尼であったのを秀長に見初められて側室になったといわれています。

 秀長には一男二女がいたといわれていますが、3人とも正室の子か側室の子かはっきりとわかっていません。

 長男小一郎(木下与一郎)は、播磨国三木城攻めの将の中に木下与一郎の名が記されており、これが小一郎だと推定されています。

 小一郎は若くして亡くなっており、その妻・お岩は若くして未亡人となり、舅の秀長の養女となって、後に初代津山藩主となる森忠政と再婚しています。

 長女・お菊は父・秀長の死後、伯父にあたる秀吉の養女として、毛利輝元の養子で、当時は毛利家の後継者と目されていた秀元の妻となっています。秀元はのちに輝元に実子・秀就が生まれたので後継者から外れます。

 二人の間に子はいませんでしたが、お菊と秀元との関係は良かったようで、生涯秀元の正室として過ごし、慶長14年(1609)、秀元に先立って23歳で亡くなっています。

 お菊の死後、秀元は家康の養女を継室に迎えました。また、側室を入れて多くの娘を産ませています。秀元は側室たちとの間に生まれた娘たちに亡くなったお菊を想ってか、「松菊子(まつきくこ)」など「菊」の字を入れた名前を付けたそうです。

 また、お菊が秀元に輿入れする際に、秀長の愛刀「吉岡一文字」が毛利家に贈られ、それ以降、毛利家に伝来しています。

 次女・おみやは、秀長の姉・日秀尼の子である豊臣秀保の正室となります。秀保はのちに関白となった秀次の実弟にあたり、秀長の後継者として、おみやと結婚して養子入りしました。

 秀長が死去するとその跡を継ぎ、兄秀次が関白に就任した後は豊臣一門の筆頭扱いでしたが、秀保は結婚から4年後に17歳という若さで亡くなりました。亡くなった秀保と、おみやの間には子供はなく、秀長の家系の大和大納言家は断絶することとなりました。

 数少ない豊臣一門だった秀保の早過ぎる死が、豊臣政権が弱体化する原因の一つになったの間違ありません。その後、おみやがどうなったかは伝わっていません。

 京都にある大徳寺の豊臣秀長の墓の隣に、「養春院古仙慶寿大姉」という慶長9年(1604)に亡くなった女性の墓が存在します。これがおみやの墓ではないかとする説もあります。

 秀長の3人の子は、全員が子供がいなくて亡くなっているので、残念ながら秀長の子孫はいません。

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