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足利将軍家の子孫~平島公方とは?

平島公方とは?

 平島公方とは、室町幕府11代将軍足利義澄の次男足利義維(義冬)の子孫で、代々阿波国平島に居住していた足利将軍家の一族のことをいい、この系統からは第14代将軍義栄が出ています。

 今回はこの平島公方家のその後について紹介します。

義栄の死去と平島公方の存続

 永禄8年(1565)5月19日、13代将軍足利義輝が三好氏によって殺害されるという事件が起きます(永禄の変)。そして、この事件ののち、三好氏によって14代将軍に擁立されたのが元々平島にいた義栄です。義栄の父義維は12代将軍義晴の弟(兄の説もあり)なので、義輝と義栄は従兄弟同士の関係になります。

 永禄11年(1568)2月に将軍に就任した義栄ですが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、将軍職を失って阿波に逃れ、失意の中まもなく病死します。

 義栄が将軍職を追われたことに伴い、弟の義助も父の義維とともに阿波の平島に帰還しました。天正元年(1573)10月8日、父の義維が死去し、義助が2代目の平島公方となります。

 その後、天正5年(1577)に後ろ盾であった阿波三好氏が滅んでしまいますが、新たに阿波に侵攻してきた土佐の長宗我部元親から3000貫(約6000石)の所領を安堵され平島公方は存続することとなったのです。

平島公方の転落!

 長宗我部家からは、足利将軍家の一族として尊重され、それなりの待遇を得ていました。しかし、天正13年(1585)の羽柴秀吉による四国征伐の論功行賞により、蜂須賀家政が阿波一国を治めることになり、平島公方家への待遇が一変します。

 なんと・・・・・3000貫の所領を没収され( ゚Д゚)、平島にわずか100石しか与えられなかったのです( ゚Д゚)一応、客分扱いではありましたが・・・蜂須賀家からみれば、平島公方家の権威は阿波国の統治において邪魔でしかなかったのでしょう。それにしても100石はひどすぎますね・・・

 もしも阿波国を治める大名が、足利将軍家と縁があった細川家や旧守護大名(小笠原家など)であったなら、平島公方家に対する扱いも違って、貴種として尊重していたと思います。

 しかし、尾張国の土豪出身で織豊時代に成り上がった蜂須賀家には足利将軍家に対する畏敬の念など全く持ち合わせていなかったということでしょう。徳川将軍家が鎌倉公方の子孫である喜連川家に10万石格の大名としての格式を与えたのとは正反対の対応ですね。

 江戸時代に新井白石が著した『藩翰譜』には、「平島領三千石といふあり足利将軍義稙の子義冬此地を領して子孫平島公方と称す家政之に百石を与え賓礼を以て其家を存すといふ」との記述があります。ここで義稙の子義冬とありますが、これは養父という意味です。

 さらに、慶長13年(1608)には蜂須賀家からの命令で、4代目当主足利義次は足利の家名を平島に改姓させられ、平島又八郎と名乗らされます(/ω\)

平島義次には以下の話が伝わっています。

公方館の掃除の際、床下に蛇やまむしがたくさん死んでいた。このことが、足利将軍家の威光を怖れて蛇やまむしが死んだからだと庶民に伝わるようになった。平島公方家では「阿州足利家」と紙に印し、庶民はまむしよけの守り札を公方家に受け取りに来るようになった。今でも徳島県下にはこの札が伝わる家がある。禄が少ない公方家にとって守り札の収益は貴重な財源だった。

 かつての威光にはほど遠いとはいえ、庶民からは足利将軍家の末裔として尊敬されていたことがわかる逸話ですね。

 蜂須賀家から冷遇を受けていた平島公方家ですが、代を重ねるごとに徐々に知行が加増されます。明和年間(1764-1771)には、1190石まで回復されるなど待遇の改善がみられるようになりました。

平島公方の迷走?とその後

 しかし、それでも200年以上も冷遇されていたことへの不満が積もっていたのか、文化2年(1805)、9代目当主義根は、病気療養を理由に阿波国を出奔し、紀州藩へと向かいます。

 蜂須賀家も書状を出して慰留しましたが、義根の決意は変わらなかったということです。慰留するぐらいなら、冷遇しなければ良かったのに・・・

 なぜ紀州藩に向かったかというと、好待遇で勧誘されたからだといわれています。しかし、土壇場になって幕府からの横槍が入り、紀州藩から入国を拒否されてしまうのです。

 幕府からすると、旧足利将軍家の子孫が仕えることで紀州藩の権威が上がると考え、それを防ぎたかったということでしょうか?

 行き先を失った平島公方一行は、京都に入り、等持院や鹿苑寺など足利氏ゆかりの寺、紀州藩からの援助を得て、なんとか生活を維持したそうです。紀州藩としても勧誘しておきながら、土壇場で拒否することになった負い目があったのでしょう。

 しかし、援助だけでは家臣団を養っていけるわけがなく、ほとんどの家臣が離散します。そして、明治維新とともにわずかな援助も打ち切られることになりました(紀州徳川家は明治30年頃まで援助を続けていたそうです)。

 明治4年(1871)、当主であった義俊は足利将軍家の正当な末裔として華族になれるように運動を行いました。しかし、嘆願はかなわず、そればかりか徳島藩から脱藩していたため、士族にすらなれず平民とされました。

 阿波から退去していなければ、士族となっていたでしょうに・・・ちなみに同じ足利将軍家の子孫だった喜連川家は華族となって子爵を授けられています。

 三百年もの長い間、不遇が続いた平島公方家ですが、子孫は現在まで続いており、初代足利義康からの血脈を守っています。

『阿波の古跡名勝:郷土研究』著者 橋本亀一編 昭和7年
「平島公方屋敷址」 平島御所ともいひ阿波に於ける足利家即ち平島公方の居られた址は古津にあり今、御花畑、隅の社などの地名が残つて居る又平島家の氏神八幡社は三栗にあり平島公方累代の墓は附近赤池の西光寺に現存して居る

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