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「七日関白」といわれた藤原道兼〜紫式部との関係は?その子孫は?

 藤原道兼は、平安時代中期の公卿で、有名な藤原道長の次兄にあたる人物です。最終的に関白になりますが、参内してわずか7日目で亡くなったことから「七日関白」と呼ばれました。

 今回の記事はその道兼の生涯と子孫(有名人も)について紹介します。

藤原氏嫡流に生まれる

 道兼は、応永元年(961)、のちの摂政関白太政大臣藤原兼家の三男として産まれました。母は藤原時姫で、同母の兄弟姉妹に道隆、道長、超子、詮子がいます。

 天延3年(975)に従五位下に叙位され、その後も順調に出世の階段を上ります。

 その頃、父・兼家は兄の兼通との仲が悪く、権力闘争を繰り広げていました。先に兼通が関白となりましたが、兼通の病没後、父・兼家は藤原氏の氏長者となり権勢を振るいます。

藤原兼通・兼家兄弟~出世を巡る骨肉の争い
安和の変で源高明を排除し対抗勢力のいなくなった藤原氏ですが、その後は一族一致団結して立派な政治を志すわけでもなく、一族内部の争いに転じていきます。

花山天皇を退位させる

 永観2年(984)、花山天皇が即位すると道兼は蔵人頭として天皇に仕えます。東宮(皇太子)には同母妹・詮子を母とする懐仁親王が立てられていました。

 そのため、摂政になって天皇の外祖父として権勢を振るいたい父・兼家は、懐仁親王の早期の即位を望んでいました。当然、花山天皇には退位してもらわなければなりません・・・

 そして、兼家は天皇退位を実現させるためにある作戦を道兼に命じます。

 その当時、花山天皇は、寵愛していた女御・藤原忯子が死去して、深く悲しんでいました。天皇に近侍していた道兼は仏の教えを説き、出家を勧めます。さらに自身(道兼)も出家することを約束したのです。

 道兼に山科の元慶寺に連れて行かれた花山天皇は、ここで剃髪してしまいます。
そして、道兼は『大鏡』によると、「父兼家に出家前の姿をもう一度見せ、出家することを話したうえで、かならずここへ戻ってきます」と言って寺から立ち去ってしまいます。

 しかし、道兼は約束を破って戻ってこず、花山天皇だけが出家してしまいます。
この一連の出来事は「寛和の変」といわれています。

寛和の変~藤原兼家父子の陰謀と花山天皇
藤原道長の父兼家と兄道兼が、策略により花山天皇を出家させ退位に追い込んだ「寛和の変(かんなのへん)」について紹介します。

兄道隆が関白となる

 父・兼家の死後は、長男の道隆が関白になります。『大鏡』によると、道兼は自分の方が兄よりも貢献度があったのだから、自分が関白を継ぐべきだと思っていたそうです・・・

 それなのに兄が関白を継いだので父を強く憎み、父の喪中であるにもかかわらず客を集めては遊び戯れたといわれています。

七日関白

 長徳元年(995)、関白道隆が重い病に伏しました。道隆は存命中に息子の内大臣伊周に関白を譲ろうとしますが、一条天皇がこれを認めてくれないまま、4月10日に死去しました。

 そして、4月27日に道兼は関白宣下を受けます。しかし、ようやく念願叶って関白に就任したのもつかの間、道兼は病になり、5月8日に亡くなってしまったのです。享年35歳でした。このことから、世に「七日関白」と称されました。

 道兼の死因について詳しい病名は不明ですが、疫病が原因で亡くなったのではないかといわれています。

乱暴だった2人の息子

次男(嫡男)・藤原兼隆

 寛和元年(985)、道兼の次男として誕生しますが、長兄が早世したため、嫡男として育てられます。正暦6年(995)、父・道兼は関白に就任し、兼隆の前途も明るかったはずですが、父は在任僅か二週間にも満たず急死します。

 その後、事実上のトップになったのが叔父の道長でした。同じく道長を叔父とする従兄弟の伊周・隆家兄弟はこれに不満をもち反抗しますが、兼隆は道長側につきます。

 その後、花山院闘乱事件(長徳の変)で伊周・隆家兄弟が失脚したことで、道長の権勢は増し、兼隆は道長の側近としての道を歩むことになりました。

 叔父・道長の側近として、順調に出世の道を歩み、寛弘5年(1008)には24歳で参議に任ぜられます。

 しかし、長和2年(1013)8月に事件を起こします・・・

 学識人として知られる藤原実資の日記『小右記』に、兼隆が厩舎人(うまやとねり)を殴り殺させたと書かれているのです。厩舎人とは主人の馬を世話する家来のことです。

 『小右記』には、厩舎人が殴り殺された理由は書かれていませんが、何か兼隆の気に障ることがあったのでしょう・・・

 そして、長和3年(1014)正月に、またしても事件を起こします・・・・・

 これも『小右記』に書かれています。それによると・・・

 実資の下女と兼隆の下女が井戸の使用をめぐり争いとなって、兼隆の下女が殴られて衣服を奪い取られるという出来事がありました。

 この下女の訴えに怒った兼隆は、従者らに命じて実資の下女の家の家財を略奪して、家屋を破壊させたのです。

 一見、どっちもどっちな感じなのですが・・・ のちに争いの原因となった井戸に関する事実が判明します。

 井戸があった土地の所有権が兼隆ではなく、実は実資のものであったことがわかったのです。ようするに、自分の井戸で勝手に水を汲んでいた兼隆の下女に対して実資の下女が注意したことが争いのはじまりだったようで・・・

 真相が判明すると、さすがにまずいと思ったのか、一転して低姿勢となり、自分の下女が受けた被害は不問とし、実資の下女に与えた被害は全て補償する旨の書状を実資に対して出しています。

 寛仁元年(1017)に三条天皇の長男であった敦明親王が皇太子を辞退していますが、これは、道長の意を受けた兼隆が敦明親王を騙した結果によるものとの風評があったといわれています。

紫式部との関係~道兼と式部の子孫は?

 紫式部の娘・藤原賢子(大弐三位)は、兼隆と結婚しています。賢子は百人一首の歌人としても知られていますね。

 賢子はのちに親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母となったため、兼隆と次第に疎遠となり、離縁していますが、兼隆との間に誕生した女子は醍醐源氏の源良宗の妻となり、源知房をもうけています。

 知房は道兼と紫式部の曾孫にあたり、太政大臣藤原信長(藤原道長の孫)の養子となり、淡路、因幡、美濃守などを歴任したようですが、この系統の男系子孫は絶えたようです。

 なお、知房の娘は藤原基隆(中関白家:藤原隆家の玄孫)と婚姻し、この系統は数代続いたようですが、その後については明らかではありません。

三男・藤原兼綱

 永延2年(988)、道兼の三男として誕生します。長徳元年(995)、道兼が亡くなった後、叔父の藤原道綱の養子となりました。長保3年(1001)に元服し、兵衛佐・左近衛少将・侍従などを歴任します。

 兼綱もまた、兄・兼隆と同様に事件を起こします・・・

 寛弘2年(1005)正月、宮中で「踏歌節会(とうかのせちえ)」という行事が開催されていました。

 踏歌節会は毎年正月に宮中で開催される1年の安寧を願う行事でした。

 この会で、源朝任・藤原兼貞・藤原忠経・藤原経通・藤原資平と共に、節会で踏歌を行う女性らが使用するはずだった簪や櫛を蔵人から取り上げて、さらに暴行まで加えたのです。

 本来なら宮中で暴力事件を起こしたのだから、流罪になってもおかしくなかったのですが、6人とも有力貴族たちの子だったことから謹慎処分を受けるだけですみました。

 その後は摂関家の一族として順調に出世し、三条天皇の蔵人頭に任ぜられます。しかし、三条天皇が後一条天皇に譲位してしまうと、蔵人頭を辞めさせられます。

 これに関しては、『大鏡』によると、過去に父・道兼が花山天皇を騙して退位させ、兄・兼隆が敦明親王を騙して皇太子を辞退させたことがあったため、この一族を天皇や皇太子の身辺に近づけてはならない、との風評が立ったことが理由であるとされています。

道兼の子孫~大河ドラマに登場!?

 兼隆のあとは、兼房(式部の子賢子との子ではありません)が継ぎますが、兼房も問題児でした。宮中で何度も暴力事件を起こし、結局は公卿に昇任することなく地方官を歴任しています。ちなみに、乱暴者とされた兼房ですが、歌人としては優れていたそうです。

 『大鏡』によると、道兼の長男・兼隆より以降公卿になった者はいないとのことで、このことは彼の子孫が地方に下り在地の豪族になったことをあらわしているともいえます。

 『尊卑文脈』や「宇都宮系図」などによると、道兼、兼隆、兼房と続き、兼房の子(道兼の曽孫)とされる藤原宗円が、下野国の豪族宇都宮氏の初代当主といわれています。

 宗円の後は、宗綱、朝綱と続きますが、朝綱の弟は鎌倉幕府成立期の13人の合議制の一員であった八田知家(はったともいえ)です。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では市原隼人さんが演じていますね。

 宇都宮氏初代の宗円は、在地豪族の出身で兼房の子ではないとの異説もありますが、朝綱の孫である宇都宮氏5代の頼綱は、歌人としても優れ京の公家とも親交が深く、娘は権大納言藤原為家(歌人藤原定家の嫡男)や内大臣中院通成に嫁いでいます。

 頼綱が出家後京都へ移住し、歌人として藤原定家と交流があったためともいわれますが、いくら鎌倉幕府の有力御家人で歌人として優れていたとしても、下級貴族ではない京都の公家が、嫡男の正妻に地方豪族の娘を迎えることないでしょう。

 そもそも、定家は道兼の弟道長の子孫の一人であり、しかも定家の高祖父にあたる藤原長家の妻と、頼綱の高祖父宗円の母(兼房の妻)は姉妹(源高雅の娘)であるため、定家の家系と道兼の家系は親族になります。そのような関係で系図詐称が通じるわけもなく、むしろ元々親戚であったことから、親しく交流し、子供同士が婚姻したと考えた方が自然であるのではないでしょうか。

 ちなみに、頼綱の京都嵯峨野の別荘「小倉山荘」の襖の装飾のため、定家が選んだ歌が、「小倉百人一首」の原型になったといわれています。

 なお、為家と頼綱の娘の子らを通じて、皇室をはじめ多くの公家にも血脈が続いていることになります。

 宇都宮氏は豊臣秀吉に改易されるまで、500年間も下野国を支配し、江戸時代には水戸藩の家老格として幕末を迎えています。

 なお、宇都宮氏から分かれた多くの武家があり、有名なところとしては、江戸時代小田原藩主であった大久保家も宇都宮氏の支流で道兼の子孫であるとされています(寛政重修諸家譜)。大河ドラマ「どうする家康」では大久保忠世役を小手伸也さんが演じていますね。

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