藤原隆家の前半生~関白家の御曹司
藤原隆家は、平安中期の天元2年(979)に関白藤原道隆の四男として生まれました。公家のトップに立つ家に生まれ将来は約束された御曹司でしたが、小事にこだわらない豪快な性格であり、利口だった兄伊周とは対照的であったといいます。
道隆の死後、隆家兄弟は叔父(道隆の弟)の藤原道長と権力の座を争っていました。
権勢盛んな頃、隆家と花山法皇が「法皇屋敷門前を通ることができるかどうか」との妙な賭け事をした逸話も残されています。
賭け事が伏線だったのかどうかは分かりませんが、その後長徳2年(996)、兄弟が花山法皇と揉めた花山院襲撃事件(長徳の変)により、地方に配流されてしまいます。なんと法皇を矢で射かけており、一説には死者も出た騒動でした。
数年後許されて京に戻った時には完全に道長の天下で、隆家たちの居場所はなくなっていたのです。
道長との関係
長徳の変による左遷から復帰後、朝廷は完全に道長のものとなっていましたが、道長の賀茂詣の際、隆家が列の末に従っていたのを気にした道長が自分の車に乗せて、「先年のこと(長徳の変による伊周・隆家の左遷)について、世間では私の考えのように噂されていますが、そうではありません」と必死に弁解したと記録されています。
またある時、道長邸で宴を催した際、隆家も呼ぼうとの話になって使いを出して呼んだことがありました。その後宴が進んで皆が酔っ払ったころに隆家が到着し、道長が着物の帯を解いてくつろぐように伝えたため、他の貴族(藤原公信)が隆家に手をかけ帯を解こうとしたそうです。
すると隆家は、「今はこのような不遇の身となっているがこのような勝手な振る舞いをされる筋合いはない」と激怒したため、一同が静まり返ってしまいます。するとすかさず道長が、自ら隆家に近づき帯を解いたため、隆家も機嫌を直し宴に加わったとされています。
不遇の中関白家でしたが、唯一の期待は定子が生んだ一条天皇の第一皇子敦康(あつやす)親王でした。
当時、冷泉天皇系統と円融天皇系統が交互に即位しており、円融天皇の子一条天皇の後は冷泉天皇の子三条天皇が即位し、その後敦康親王が天皇になるはずでした。世間でも、敦康親王が即位し隆家が後見するならば、天下の政治は刷新されるだろうと噂されていました。
しかし、一条天皇が三条天皇に譲位した際、皇太子になったのは、敦康親王ではなく道長の娘彰子が生んだ敦成(あつひら)親王(後一条天皇)だったのです。
当然道長の圧力のためであり、隆家は道長のことを「何という人でなしだ」といい憤慨しますが、これで中関白家復活の道は閉ざされました。
人々は、さすがの隆家も意気消沈しているだろうと同情しましたが、三条天皇の即位式の際は煌びやかな衣装で人々の前に現れ、周囲を驚かせたといいます。
藤原隆家と刀伊の入寇
不遇の立場の中、更に目も悪くし鬱積した日々を送っていたところ、大宰府に宋からきた名医がいるとの話を聞き、自ら望んで大宰権帥に任じられて任地へ赴いたのです。
京での宮中生活より田舎暮らしが性に合ったようで、隆家はそのまま数年を過ごし、善政を施して地元の者たちとも良好な関係を築きます。
ここで日本史上に残る一大事件が発生します。いわゆる「刀伊の入寇」です。
壱岐・対馬の蹂躙と来寇の一報
寛仁3年(1019)、五十余隻の船に乗った3000人ともいわれる刀伊(女真族)の賊が、まず対馬・壱岐を襲います。島の者達は防戦するも大軍を前にあっというまに蹂躙され、壱岐島司藤原理忠も討死し、逃げ延びた者により大宰府にも報がもたらされます。
賊により民家は焼き払われ、牛馬は切り食われ、子供は斬り殺され、成人した男女は奴隷とされるために捕らわれて攫われたのです。
普通の公家であったならば恐れおののき、ひたすら神仏に祈ったまま殺されるか、いち早く逃げ出すかだったでしょうが、ここにいたのが隆家であったのが日本にとっての幸運でした。
隆家と九州豪族の反撃
隆家は直ちに部下を集めて戦闘準備を整えるとともに、各豪族に檄を飛ばし出陣を促します。文官にも武器を持たせたといわれます。
元は大宰府の役人であった大蔵種材が70を超える高齢だったにも関わらず一族郎党を率いて博多の防衛についたほか、各地の豪族も戦いに馳せ参じます。
やがて九州本土にも刀伊の賊が現れ、筑前(福岡県)の各地に上陸し、略奪・虐殺が始まりますが、各所の豪族が必死に戦い一進一退を繰り返します。
賊といっても、それぞれ盾を持ち、前列は矛を構え、次列は太刀を持ち、三列は強力な弓矢を構える組織化された部隊であり、日本軍は馬上からの騎射攻撃で戦ったといわれます。
刀伊は博多沖の能古島を占領して拠点とし、博多にも上陸しますが、大蔵種材や隆家の三男政則が奮戦し激戦を繰り広げた結果、能古島に追い返すことに成功します。
その後天候が荒れて刀伊が能古島に籠ったままのうちに、日本軍は三十余の船を揃えて逆襲の準備をし、海がおさまると一気に能古島に攻め寄せ、刀伊はこらえきれずに船で沖に退却し、島の奪還に成功したのです。
この逆襲の際はさすがに諸将が躊躇したそうですが、大蔵種材が味方を鼓舞して実行に移したとも伝わります。
刀伊はその後もしつこく松浦(長崎県)を襲ったりしたようですが、松浦党の祖ともいわれる源知も戦い、隆家も援軍を送って撃退に成功します。
ようやく刀伊もあきらめて全て引き上げ、未曽有の危機であった刀伊の入寇は終わったのでした。
来寇による被害
記録によると、壱岐、対馬、九州本土を合わせて
焼失家屋 45棟
切り食われた牛馬 199頭
殺された人 463人
攫われた人 1280人
であったといいます。
命懸けの撃退の恩賞は?
しかしながら何もしなかった(できなかった)都の貴族たちは隆家たちに冷淡で、権大納言藤原公任や中納言藤原行成らは
「隆家は朝廷の許可を待たずして勝手に兵を動かしており、恩賞を与える必要はない」
などと主張し、これに対し権大納言藤原実資らが
「朝廷の許可の前後を問題とするのではなく、戦功があったのだから賞すべきである。過去新羅の賊が対馬を襲った際、島司の文室善友が朝廷の許可を待たずして戦い撃退した際も恩賞を与えている。今回恩賞を与えなければ今後戦う者はいなくなる( ゚Д゚)」
と強く反対し、大納言藤原斎信もこれに同じたことから、大蔵種材が壱岐守に昇進するなどの恩賞が与えられたようです。
実は隆家らは、戦った当時相手が何者であるのかはよく分かっておらず高麗軍と思っていたようで、後に高麗が刀伊から連れ去られた住民を助けて日本に送り返したことから相手が刀伊であったことが明らかとなったといわれます。(この時隆家は金300両を使者に贈って高麗に謝意を表したそうです)
その後の隆家(藤原隆家の子孫)
隆家はその年に大宰権帥を辞して京での公家生活に戻ります。
長和元年(1012)に三条天皇の女御藤原娍子(すけこ)が皇后に立てられた際は、道長の圧力でほとんどの貴族が式典への参加を見送る中、藤原実資らと共に参加し気骨のあるところを見せています。
が、なんと60歳近くになった18年後に再び大宰権帥となり5年間勤めています。やはり隆家は宮中生活より九州でののびのびとした生活が性に合っていたのではないでしょうか。旧知の者達との交友を楽しんだのではないかと思います(^_^)
隆家の長男良頼が正三位中納言、次男経輔が正二位権大納言となるなど、隆家の子孫は京都で続き、皇室をはじめ多くの公家に血脈を繋いでいます。
有名な人物としては、平安末期に後白河天皇の側近として権勢を振るった藤原信頼は経輔の来孫(隆家の6代子孫)に当たります。
信頼は源義朝と共に平治の乱を起こし、ライバルであった信西を殺害し朝廷の最大の実力者となりましたが、その後すぐに平清盛に敗北、六条河原で斬首されています。
なお、刀伊の入寇で活躍した三男政則の子孫は九州に残り、後の南北朝時代に活躍した菊池一族の祖になったともいわれています。
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