今回は、本能寺の変の徳川家康黒幕説についてです。
家康黒幕説といっても、家康が変を企てて光秀を操ったといった主犯説から、共謀、唆し、黙認など無数に説がありますので、様々な説において家康が怪しまれる理由について紹介したいと思います。
信長への恨みはあった?
築山殿事件
以前は、家康の妻築山殿と嫡男信康は信長の命により死に追いやられたといわれていました。しかし、現在では信長の命ではなく、徳川家中内での政治路線の対立による粛清だったとの説が有力です。
ただ、信長の圧力で正室や嫡男を粛清したとしても違和感がないほどの力関係だったのは間違いありません。これでは、同盟関係ではなく実質は従属関係といえます。家康は、長年の実質的従属関係に疲れていた可能性もあります。
武田討伐の論功行賞
徳川家は長年対武田の矢面に立ち戦ってきました。本能寺の変の約3カ月前の天正10年(1582)3月に織田・徳川連合軍が甲斐に侵攻し武田家を滅亡させた後、家康に認められたのは駿河の領国化でした。
しかし駿河には信長への従属を認められた穴山信君の江尻領が別にあり、それを除いた部分とすると、ほぼ、既に徳川家が領土化していた分を追認されたにすぎません。
家康、徳川家中は甲斐国についても全部又は部分的に徳川に与えられると思っていたのではないでしょうか。結果的には甲斐、信濃は織田家中に与えられていますが、これに不満があった可能性はあると思います。
信長への恐怖は?
長年の宿敵であった武田家を滅ぼしましたが、全国に目を向けていた信長と違い、徳川家にとっての武田家の存在は想像以上に大きいものであったと思われます。
小田原の北条家には信長に抗する意思はなかったので、もはや徳川家は信長にとって用済みであり(信長はそう思っていなかったでしょうが)、いつ粛清の対象となってもおかしくないとの恐怖はあったでしょう。
また、織田領と北条領に囲まれることとなったため、徳川家がそれ以上勢力を伸ばすことはできず、織田家の従属大名として使われることしかない未来への不安もあったかも。
武田遺臣の取り込み
甲斐に侵攻した織田軍(信忠、河尻秀隆ら)が徹底して武田一族・家臣を討伐していったのに対し、家康は武田遺臣を匿ったり家臣化していっています。
武田滅亡により、穴山信君領を除いた、甲斐は織田領(河尻秀隆)、駿河は徳川領となっており、甲斐へ触手を伸ばすのは信長への背信行為となりかねないにもかかわらず、積極的に取り込んで家臣団を強化していっているのです。
これは先述のとおり、元々甲斐は徳川家に与えられるだろうとの意識があったのかもしれません。
そうでないとしても、信長の存在より信長亡き後の争乱への備えを優先しているようにも感じられます。
家康と光秀の接点は?
家康には光秀に謀反を決意させる機会がありました。有名な光秀の饗応役です。本能寺の変前月の5月、家康と穴山信君が駿河拝領の御礼に安土城を訪れた際に饗応役であった光秀と話を取り交わす機会はあったと思われます。
この際、光秀に対し、
・謀反を唆す
・不安を煽る
・事が起こった際は味方する
・事が起こっても傍観する
等のことを伝えたり、匂わせる程度のことは可能だったでしょう。
本能寺の変の絶妙なタイミング
家康は、安土城での信長との対面後、堺見物に転進していますが、その後京へ行った信長に再度会いに行くため京に上ろうとしていた時に本能寺の変が起きています(徳川実紀)。
言い換えれば、安土から京へ向かう信長に同行せず、たまたま信長と距離を置き別行動で堺に赴いたタイミングで本能寺の変は発生しているのです。
伊賀越えの謎
堺で本能寺の変を聞いた家康は、そのまま京へ上り知恩院で信長の後を追い腹を切ると言ったとされていますが(徳川実紀)・・・
元々饗応役であった光秀の頭の中には家康の動向はしっかりと把握されていたはずであり、通常はその手を脱出することは不可能な状況でした。
そのような絶望的な状況の中、奇跡的な冒険劇により窮地を逃れたとされていますが、伊賀越えに関しては謎だらけであり、光秀が故意に逃した可能性もあるとされています。
なお、元々家康に同行していた穴山信君はなぜか途中で家康を疑い別行動を取った結果、残党狩りに遭い命を落としたとされていますが、家康に殺されたとの言い伝えもあり、その死についても謎が残っています。
帰国後の家康の行動~何を目指した?
秀吉の「中国大返し」のように、一報を受けた信長家臣団は直ちに光秀討伐を目指します。ちなみに、6月2日に発生した本能寺の変後の秀吉の行動は、
7~8日 姫路帰還
9日 姫路出発
13日 山崎の合戦
となっています。
一方の家康は、徳川実紀によると
7日 岡崎到着
8日 家康が光秀討伐の軍令を発する
14日 家康が光秀討伐のため岡崎を出発
19日 家康が鳴海(尾張)まで進軍したところで秀吉からの使者により岡崎に帰還
となっており、かなり遅いことがわかります。
秀吉が早すぎるのもありますが、徳川実紀が正確だとすれば、出発、進軍も異常な遅さです。実際には三河到着ももう少し早かった可能性があります。また、山崎の合戦を6日も経って知ったことになるのも不自然ですね。
では、徳川家は何をしていたのかというと・・・・甲斐侵攻です( ゚Д゚)
甲斐侵攻の日付については、なぜか?徳川実紀に記載されていませんので、他の資料等による日程を記載します。
6日 岡部正綱を甲斐穴山領に派遣し従属化開始
9日 甲斐に向け徳川軍進軍開始
14日 河尻秀隆が徳川家の使者を斬る
18日 河尻秀隆が武田遺臣に殺害される
春日局の謎
徳川3代将軍家光の乳母として有名な春日局は、光秀の重臣であった斎藤利三の娘です。利三は山崎の合戦で敗れた後に磔で処刑されています。
春日局は、家光の乳母に応募し採用されたことになっていますが、家光は徳川家の嫡男であり、乳母はしかるべき家から選ばれるはずです。
数多くの候補の中からわざわざ謀反人として処刑された利三の娘を乳母にする必要はありません。
しかも家光の母はお江の方です。お江の方は淀君の妹で母は信長の妹お市の方であり、春日局は伯父信長の仇の娘となります(もっとも、信長は父浅井長政の仇ですが・・)。血筋を重視する当時において有り得ない人選です。
更に、4代将軍家綱の乳母三沢局も光秀の重臣三沢秀次の孫であるといわれています。
謀反を唆した家康が、結局光秀に味方しなかった罪滅ぼしに明智ゆかりの春日局を採用したともいわれています。
本能寺の変に関する資料
当時日本中を揺るがす大事件であったにもかかわらず、本能寺の変について書かれた資料は極めて少ないとされています。天下を取った徳川家に憚って都合の悪い記録は闇に葬られたかも・・・
老人雑話での記述~当時の人々はどう思っていた?
江村専斎という永禄8年(1565) から寛文4年(1664)まで生きた京都の医師が見聞きした内容を語った「老人雑話」という話があります。
専斎が語った内容を書き留めたもので、必ずしも真実とはいえませんが、一般の人がどのような噂をしていたのか、認識でいたのかがわかる貴重なものです。その中で、
まとめ
以上家康黒幕説がささやかれる理由を紹介しましたがいかがだったでしょうか?
さすがに黒幕であった可能性は低いでしょうが、本能寺の変を好機として家康が一気に勢力を拡大し天下を狙う立場になったことは間違いありません。
光秀に対し、はっきりとした言葉には出さなくとも、謀反を決意させる何らかの態度を取ったのかも!?
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