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家康の籠城戦心得とは・・・

 家康は、三方ヶ原の戦いで敗れて浜松城に逃げ帰った後、門を開けたままにさせて篝火を焚いていたことにより、逆に武田方が用心して城に攻め入らなかったことが有名です。また、家臣が討ち取ってきた首を刀に突き差させ、「信玄を討ち取ってきた」と言いふらさせたといわれます。

 関ヶ原の戦いの前哨戦として家康が上杉討伐に向かっていたとき、鳥居彦右衛門(元忠)から伏見城での籠城に関して、

「不必要な橋は全て撤去して堅固に城を守っています」

との文が届きました。

鳥居元忠~血天井と鳥居家のその後
鳥居彦右衛門元忠は家康の側近中の側近で、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで玉砕し最後まで家康に忠義を尽くした武将です。関係する血天井に関する逸話や鳥居家の子孫まで含めて紹介します。

 それを見て家康は、

「それは心配じゃ。元々架けてある橋はそのままにしておき、更に不便なところにも新たに橋を架けて道筋を整えておくべきなのに、橋を取り払ってしまうとはとても長く籠城できまい」

とため息をついたそうです。家康曰く、

「籠城戦では、ただ閉じこもっているだけでなく敵を引き付けるだけ引き付けて、一気に弓矢鉄砲で攻撃して混乱させたところを城から打って出て蹴散らすことを繰り返さなければならない。橋を撤去してしまっては攻撃に出ることもできずに城は長く持たないだろう」

ということで、その心配したとおりに数日後には伏見城は落城してしまったといいます。

 同様のことは武田勢に野田城が攻められたことにも申し送っていたとされ、三方ヶ原での逸話といい、家康の籠城極意とは、「いかに城兵の士気を保つか」といったところでしょうか。

 ただ、伏見城はわずか1800の兵で西軍の大軍の中に取り残されており、堅固に城を固めようが、少数で打って出ようが結果に変わりはなかったでしょう。

 伏見城の家臣達を捨て石にしてしまった家康の言い訳のような・・・・。愚将扱いされるようで、初めから玉砕覚悟で戦った伏見城の家臣達が可哀そうな気がします・・・・

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