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今川氏真の後半生と今川家のその後

今川氏真の生涯

 永禄3年(1560)にあった有名な桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られましたが、この戦いで今川家が滅んだわけではなく、依然として駿河を中心とした大大名であったことに変わりはありません。

 義元の跡を継いだのが嫡男の今川氏真でした。しかし、武田や北条といった強大勢力に囲まれ、次第に今川家の勢力は削られていきました。

 家康など離反する家臣が相次ぎ、疑心暗鬼となって家臣を謀殺し、また家臣が離反するなど悪循環に陥っていきます。

 永禄11年(1568)には武田軍と徳川軍に攻め込まれて国を追われ、氏真は妻早川殿(北条氏康の娘)の実家である北条家を頼って落ち延びていきました。

今川館の跡に築かれたといわれる駿府城

今川館の跡に築かれたといわれる駿府城

 更に元亀2年(1571)に北条家が武田家と同盟を結んだことから北条家にも居場所はなくなり、その後逆に徳川家を頼り保護されることとなりました。

 天正3年には京都に赴き寺社の参詣等をしていますが、この際織田信長とも会見しています。なお、会見の際、信長の前で蹴鞠を披露したそうですが、父の仇に対してどのような気持ちだったのでしょうか。

 天正4年には家康によって遠江牧野城主に任命されていますが、わすが1年で解任されているようです・・・

 その後、京都に移り住んで公家と交流し、和歌や連歌の会に参加していることがわかっています。

 京都時代も家康との関係は続き、晩年は江戸に移り品川に屋敷を与えられましたが、家康が江戸に来た際には家康の元へ通って長話をするので家康が困っていたとの話が残されています(>_<)

 慶長18年(1613)まで生き77歳で死去しましたが、信玄の跡を継いだ勝頼が織田家に滅ぼされ、氏康の跡の氏政が豊臣氏に滅ぼされた中、氏真が戦国の世を生き残ったことは、彼なりのたくましい処世術があったのではないかと思います。

 政略結婚であった妻の早川殿や子供たちも生涯氏真と行動を共にしており、戦国大名に似合わない良き家庭人であったのではないでしょうか。

今川氏真の子孫(今川家のその後)

 子孫は幕末まで代々儀式などを担当する高家として徳川家に仕えています。氏真の孫直房が家康死後に「東照宮」の宮号を交渉のすえ朝廷より得たことは高家の功績として知られています。

 また今川家は多くの大名家とも縁組しており、特に同じ高家の吉良家とは元々同族(足利一族)であり縁戚関係が強く、元禄赤穂事件で有名な吉良義央は氏真の玄孫(孫の孫)に当たります。

 幕末の今川宗家当主今川範叙は、高家のほか若年寄も兼ねて新政府軍との和平交渉に尽力しましたが、跡継ぎがおらず明治になって宗家は絶えてしまったようです。

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