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小松姫(稲姫)~本多忠勝の娘で真田信之の妻であった女性の生涯

 小松姫(稲姫)は、徳川家康の重臣本多忠勝の娘で真田信之(当初は信幸であったがここでは信之で統一)の妻となった女性です。父の忠勝は徳川四天王の一人で、豊臣秀吉から「天下無双」といわれたほどの武将です。今回は、その娘小松姫が信之に嫁いだのち、どのような人生を送ったのかを紹介します。

信之との結婚~徳川と真田の政略

 天正10年(1582)10月、徳川・北条・上杉によって争われた「天正壬午の乱」が終結します。しかし、真田昌幸は沼田領引き渡し問題が引き金となって、徳川方を離反し、天正13年(1585)8月の第一次上田合戦などで両家は対立抗争を続けていました。

 この対立は、天正15年(1587)3月に豊臣秀吉の命により、昌幸を家康の与力大名とすることで決着しました。そして、それまで争っていた両家の関係を緊密にすることを目的として、小松姫と昌幸の嫡男である信之の婚姻が成立しました。

 当初は本多家の娘として輿入れする予定だったのが、これに昌幸が難色を示したため、家康の養女として嫁いできたといわれています。昌幸としては、小さいながらも真田家は独立大名なので、大大名の徳川家といえどもその家臣の娘を貰うのはプライドが許さなかったのでしょうか(^_^;)

結婚にまつわる逸話は本当?

 徳川家康は、家中の若い武将達を集めて、養女になった小松姫にその中から結婚相手を選ばせようとしました。

 小松姫は、なんと・・・(゚Д゚)武将達の髷を掴んで顔を上げさせて吟味したといいます。どの武将も家康の養女ということで、黙って顔を上げていたのですが、信之は小松姫が髪に手を触れた途端、それを払いのけ、「無礼な」と叱責したとか・・・

 小松姫はこの気骨に感動して、信之を結婚相手に選んだといった逸話が残されています。しかし、二人の結婚は徳川・真田両家の政略結婚で決められたものなので、話としてはたしかに面白いですが創作だと思います・・・(^_^;)

信之にはすでに正室がいた?

 信之には、小松姫と結婚当時にすでに清音院殿という正室がいました。清音院殿は、昌幸の長兄である真田信綱の娘でしたので、信之とはいとこ同士ということになります。

 真田家は「長篠の戦い」で、長男信綱と次男昌輝が戦死したので、他家に養子にいっていた昌幸が実家に戻って跡を継いだという経緯がありました。ようするに、清音院殿は本来ならば真田本家の娘ということです。

 しかし、家康の養女である小松姫を迎えるにあたり、清音院殿は側室に格下げされたといわれています。これと似た話が津軽家の正室だった辰姫にもあります【石田三成の娘辰姫】

 清音院殿はのちに長男信吉を生んでいます。この信吉はその後沼田城主となりますが、父信之よりも早く亡くなります。さらに嫡男熊之助も早世したことから、次男である信利が沼田領を継ぎます。

 そして、信之の晩年に小松姫の孫である幸道が真田本家の家督を継いだことに不満をもった信利が「松代藩の正当な後継者は自分である」と幕府に訴え、騒動に発展することになります【真田信之の晩年】

関ヶ原の戦い直前の逸話

 慶長5年(1600)、徳川家康は会津の上杉景勝を討つべく出陣します。真田昌幸・信之親子も家康に従軍しましたが、途中上方で石田三成が挙兵したことが知らされます。

 徳川家康に付き従っていた諸将の多くは、家康に味方することを表明します。真田家も、信之は家康の東軍につくことを明確にします。しかし、真田家の当主である昌幸と、次男の信繁(幸村)は、石田三成の西軍につくことに決めたのです「犬伏の別れ」。

 昌幸は居城の上田城に戻る途中、沼田城に立ち寄り、休憩したいと小松姫に申し出ます。しかし、小松姫は夫と義父・義弟が敵対関係になったと悟り、申し出を拒否し、自ら刀を携え、戦も辞さずという構えをみせたのです。これを見た昌幸は小松姫の行いに感心したと伝えられています。

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戦国の女城主(番外編)~小松姫(稲姫)
本多忠勝の娘稲姫(小松姫)が、夫真田信之の留守中に沼田城と家臣を守ったエピソードを紹介します。

関ヶ原の戦い後の小松姫

 西軍に味方した昌幸と信繁は、処罰されることになります。家康にとっては何度も煮え湯を飲まされた仇敵であり、死罪を申し付けてもおかしくはなかったのですが、信之と舅の忠勝が家康に必死の助命嘆願をした結果、死罪を免れ、紀伊国九度山への流罪となりました。

 これは、小松姫が父の忠勝に家康へ助命嘆願をしてくれるようお願いしたためともいわれています。九度山で貧しい暮らしを余儀なくされた昌幸と信繁でしたが、信之と小松姫は義父のもとへ仕送りをして生活を助けています。

晩年の小松姫

 元和6年(1620)春、病にかかった小松姫は草津温泉での湯治のため、江戸から草津へ向かう途中に武蔵国鴻巣で亡くなります(享年48)。信之は「我が家から光が消えた」とたいそう嘆き悲しんだそうです。

 その後、松代藩主真田家は跡目相続争いや農民一揆などが起こりますが、明治維新まで無事に存続することができました。もちろん藩祖である信之の功績が大きいのは当然ですが、徳川四天王の本多忠勝の娘で家康の養女であった小松姫の存在がその後の真田家の存続に多大な影響を与えたと思います(^_^)


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