信玄の娘~松姫(信松尼)の生涯
松姫は武田信玄の四女として永禄4年(1561)に生まれ、7歳のとき武田家と織田家の政略により、織田信長の嫡男で当時11歳だった信忠と婚約します。
婚約後も松姫は武田家で育てられましたが、新館御寮人と呼ばれ、信忠の婚約者を武田家が預かるといった形式を取ったようです。
しかし、武田家が上洛の軍を起こした三方ヶ原の戦いで、信長が家康に援軍を送ったことで織田家と手切れとなり、本人同士が会うこともないまま5年ほどで婚約も解消されることとなったのです。それまで幼き二人は文でやり取りをしていたといいます。
婚約が解消された後も松姫は、一旦婚約したことを重んじて、他に嫁すことを拒んでいたともいわれます。
天正10年(1582)3月の織田家による甲斐侵攻の際は、皮肉にも信忠が武田討伐軍の総大将を務めます。一族と元婚約者が直接殺しあうことになったのです。
当時松姫は、兄である仁科五郎盛信の居城高遠城に居ましたが、織田軍侵攻の知らせに盛信の娘督姫(4歳)を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫貞姫(4歳)と、人質とされていた小山田信茂の孫娘香具姫(4歳)も連れてわずかな護衛に守られ安全な地を求め落ち延びていきます。(盛信たちは高遠城で壮絶な玉砕を遂げます)
一行は信濃方面から攻める織田軍や駿河方面からの徳川軍を避け、東方の北条氏の領地を目指して山越えを繰り返したようです。
小山田信茂は最後に松姫の兄勝頼を裏切ったとされていますが、松姫は香具姫も見捨てずに連れて行っており、途中信茂が逃避行を手助けしたとの説もあります。
一行は武蔵国八王子に辿り着き、小さな庵に落ち着いたそうですが、驚いたことに松姫の生存を知った信忠が、改めて妻として迎えようとしたとの話もあります。おそらく信忠は松姫の行方を捜していたのでしょう。
更に驚くことに松姫も求めに応じて迎えの輿を待っていたそうですが、直後の6月に起こった本能寺の変で京都に戻っていた信忠も死んだことで、迎えが来ないまま織田軍は撤退していったそうです。
この話の真偽のほどは分かりませんが、武田家の姫であると同時に信忠の妻であるとの意識も強かったのではないでしょうか。
その後ほどなくして松姫は剃髪し信松尼と称します。この地を治めていた北条氏照の庇護を受けていたようですが、北条滅亡後は家康の関東入りとなります。
北条の庇護が無くなっても信松尼たちは機織りを業として生計を立て、連れてきた姫たちや身寄りのない者も集めて養育し、武田旧臣たちも信松尼の元に集うようになったそうです。
その後、八王子の地は関東郡代であった武田旧臣の大久保長安が治めることとなり、信安は信松尼のために庵を建て(現在の信松院)て庇護し暮らし向きも落ち着いたようです。
晩年には姉の見性院(穴山梅雪の妻)と共に秀忠の隠し子の保科正之を養育し、そのまま八王子で元和2年に56歳でこの世を去ります。
激動の前半生でしたが、落ち延びた旧臣たちに囲まれながら、平穏な日々を過ごし生涯を全うしたのではないでしょうか。
共に逃れた武田の姫たちのその後
松姫に連れられて生き延びた幼い姫たちのその後は・・・
督姫(小督姫)~仁科盛信の娘
兄仁科盛信の娘で小督姫とも呼ばれており、体も小さく病弱だったようです。そのまま嫁ぐことはなく出家し、生弌尼と号しましたが、慶長13年(1608)に29歳で病死しています。
貞姫~武田勝頼の娘
兄武田勝頼の娘で、後に宮原義久の正室となっています。
宮原義久とはあまり聞きなれないかもしれませんが、実は鎌倉公方足利氏の子孫である関東の名門家です。
義久との間に子晴克をもうけており、宮原家は江戸時代高家を勤めて存続し武田勝頼の血脈を伝えています。
ある時2代将軍秀忠は、勝頼が若さゆえ滅んだと惜しみ「武田勝頼の子孫はいないのか」と近臣に尋ね「宮原右京(晴克)の母は勝頼の娘です」と報告されると喜び「初めて聞いた、ほかにいないのか」といい、名跡を継ぐ者がいないと知ると残念がったといいます。
また、貞姫の曾孫氏春は、宮原家から同じ足利一族の喜連川家の養子に入って跡を継いでいます。
香具姫(天光院)~小山田信茂の孫娘
香貴姫とも。小山田信茂の孫娘でしたが、養女として勝頼の人質になっていました。
松姫の元で養育されたと思われますが、一説には家康の側室になっていたようで、戦陣にも連れていかれるほど寵愛を受けていたといわれます。
家康没後に跡継ぎの男子が生まれていなかった磐城平藩主内藤忠興の側室となり、香具姫が41歳で生んだ義概が内藤家の跡を継いでいます。
ちなみに、内藤忠興の姉妹である菊姫は信松尼が養育した保科正之に嫁いでいますので、その縁もあったのかもしれませんね。
なお、香具姫は内藤家だけでなく武田家の存続にも大きな役割を果たしています。
武田信玄の次男龍芳の孫である武田信正は大久保長安事件に連座して伊豆大島に流されていましたが、信正が寛文3年(1663)に徳川家光の十三回忌に合わせて50年ぶりに赦免された際には、信正を内藤家に迎えています。信正は香具姫の恩人松姫の甥の子に当たります。
驚くことに、既に高齢であった信正を香具姫が生んだ娘の婿としています。そして2人の間に生まれた武田信興が武田家の名跡を継ぎ、武田家は高家旗本として江戸時代存続することとなったのです。
武田家最後の裏切り者とされた小山田信茂の孫娘である香具姫が、松姫に助けられて養育された結果、後に武田家の名跡を守ることとなったのでした。
その他一族・家臣の娘達
甲斐武田家滅亡時に、多くの娘が徳川家臣の側室等になっているようです。
馬場信春の娘
寛政譜の鳥居家の項によれば、鳥居元忠が家康の命により馬場信春の娘を娶って側室としたとされており、戸沢政盛(出羽新庄藩の祖)の正室となった女子、忠勝(子孫は水戸徳川家家臣)、忠頼(美濃守・1500石の旗本)、忠昌(伯耆守・鳥居家家臣)の4人の子を生んでいます。
武田信廉(武田逍遥軒)の娘
寛政譜によれば、大久保忠世の弟大久保彦左衛門忠教の妻は、馬場信春の一族馬場信成の養女となっていますが、実は武田逍遥軒(信玄の弟)の娘で信成に養育されたとされており、跡継ぎの忠名らを生んでいます。
参考文献
国立国会図書館デジタルコレクション
『武田信玄の経綸と修養』(長野縣北信五郡聯合教育会)
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