日本では、「復讐禁止令」が布告される明治初期まで多くの仇討ち事件がありました。この仇討ちは明治4年(1871)に加賀藩で起きた、「復讐禁止令」布告以前で日本最後の仇討ちともいわれている事件です。
時は幕末、本多政均は加賀藩家臣で最高の家格である加賀八家の一つ加賀本多家の当主でした。この加賀本多家の初代は本多政重といって、徳川家康の側近として活躍した本多正信の次男にあたる人物です。また、政重は直江兼続の養子になって上杉家に仕えていた時期もありました。
加賀本多家は陪臣(将軍からみれば家来の家来)としては、江戸時代を通じて全国で最高の5万石を知行していました。分家も合わせると7万石を超えており、現在の金沢市本多町は江戸時代に本多家の一族や家臣たちの屋敷があったことにちなんでついています。
また、政均は従五位下播磨守に任官しており、本多従五位と呼ばれていたそうです。加賀藩では陪臣叙勲は加賀八家から4人許されており、その内2人は加賀本多家と前田土佐守家(利家の次男利政の子孫)の当主が江戸期を通じて常時選ばれていました。前田土佐守家は於松の方(芳春院)の直系男子の血を伝える家でもあります。
政均は安政3年(1856)に家督を継ぎ、加賀藩主前田斉泰の信任を受けて執政に就任します。元治元年(1864)に禁門の変が起こると、藩内の勤皇派を処罰したのが政均でした。また、洋式軍制の導入を進めるなど改革を進めたため、尊王攘夷派の藩士に恨みを買っていたのです。
そういった中、藩士の井口義平(21歳)、藩士の子である山辺沖太郎(26歳)の両名は、急激な改革は政均の専横によるものと信じ、政均討つべしと仲間を集います。
周囲の者達からは、まず建白書などを出すべきと窘められたようですが、引き留められるほど、若い2人は余計に燃え上がって賛同者を説き伏せたそうです。
そして数名から賛同を得たものの、結局井口、山辺の両名が実行役となります。両名は政均を狙いますが、大名並みの家臣を持つ政均の警備は厳重で中々手を出す隙がありません。
そこで、明治2年(1869)8月7日、両名は、慣例により政均が1人になる金沢城二の丸御殿において政均を待ち構えることにします。従来厳重だった御殿内の警備も、維新後は緩くなっており2人は紛れ込むことに成功したのです。
そして、一人で昇殿してきた政均に対向から歩み寄って、左右に分かれて黙礼し、会釈をし通り過ぎようとする政均を左右から襲い殺害するに至ったのでした。
知らせを聞いた藩知事慶寧は驚愕しますが、とにかく本多家中が暴発すると大騒乱になるのは必至であったため、本多家の縁者である重臣を本多邸に遣わして行動に移さないように自らの言葉を伝えさせます。
守旧派は政均の専横により幕末の急激な改革があったと考えていましたが、慶寧はそれを否定し政均の忠勤を認め、6歳であった遺子資松への跡目相続が許されています。
政均は実直な人物で、家でも常に正座し足を崩すことなく、公私の区別も厳格で、人事の斡旋等を頼まれても応じず、ある時は、雑談の際に弟から藩の軍馬の数を尋ねられるも「軍事を担当していない者に対して軍事機密を漏らすことはできない」と答えるほど真面目な人物であったと伝わります。暗殺されたときはまだ32歳でした。
一方暗殺者側は、現場で捕らえられた実行犯2名のほか、謀議に加担した者達が捕えられます。
彼らも私利私欲のためではなく、それが正義だと信じて実行に移したことが、維新の動乱期によるものといえ悲しいところですね。
憤激する本多家臣らは幾度となく犯人の引き渡しを求めますが、新政府の司法手続きによることになり、引き渡しがされないまま日が過ぎていきます。
獄舎に押し入ってでも復讐を果たそうとする本多家臣団を藩庁側は鎮撫していましたが、結局、同4年2月に暗殺関係者への判決が出されます。
切腹:井口義平・山辺沖太郎
禁固3年:菅野輔吉
閉門70日:岡野悌五郎・岡山茂・多賀賢三郎
無罪:石黒圭三郎ら数名
実行犯の2名は切腹となりますが、計画に携わっていた他4名の藩士は切腹を逃れます。さらに嫌疑があるも無罪となったものが数名いました。
そして、自分たちの手で主君の仇を討てず、この判決内容にも到底納得することができない本多家臣たちを、更に激高させる出来事が起こります。
同4年7月、廃藩置県により金沢県(当時)が置かれることとなりましたが、暗殺一味であった岡野悌五郎と多賀賢三郎が県官として採用されたのです。なお、復讐を警戒したのか、岡山茂は金沢を去り行方が分からなくなっていました。
ついに、主君の仇討ちを深く心に誓った一部の本多家臣により、仇討ち計画が立てられることになります。
計画は政均の従兄弟で本多家家老(知行500石)である本多弥一(27歳)を中心に進められ、参加したのは弥一を含め20代から40代の15名でした。
この本多弥一は赤穂浪士で言えば大石内蔵助のような立場といえます。尋常でない弥一らの様子に怪しむ者も出てきたため、会合をやめわざと酒色に溺れるふりまでしたり、商人に扮するなど様々な方法で仇の動向を探っていったそうです。
機会をうかがっていた弥一らは、同年11月、県官となっていた多賀賢三郎が、関西・鎮西方面視察のために長期出張に出たとの情報を掴み、仇討ちの時期が来たと行動に移します。
11月23日を仇討の日と決し、18日に芝木喜内・藤江松三郎の2名が多賀の後を追って京都方面に出発し、島田伴十郎・上田一二三の2名は石黒圭三郎が住む東京に向け出発します。
そして、残った11名の同志たちは二手に分かれて、岡野悌五郎と菅野輔吉の襲撃準備に取り掛かったのです。
決行の日である23日、本多弥一・富田総・鏑木勝喜知・吉見亥三郎の4名は、県庁から退庁する岡野悌五郎を待ち構えます。4人は出てきた岡野の後を付けますが、異変に気付いた岡野は突如疾走します。
先頭に立つ弥一が、岡野に名乗りかけながら追いかけます。すると岡野は振り向きざま抜刀して弥一に斬りかかりますが、弥一らはすぐに応戦し岡野を倒しました。そして弥一らはそのまま県庁に自首したのです。
矢野策平・西村熊・舟喜鉄外・浅井弘五郎・廣田嘉三郎・湯口藤九郎の6名は自宅に謹慎している菅野輔吉宅へ向かっていましたが、弥一らの成功を見届けた連絡役の清水金三郎は、6名の後を追って走り、それを知らせます。
菅野は自宅で私塾を開いており、門下生が仇討ちを邪魔するのを警戒して6名で向かっていたのですが、このとき門下生はおらず、後で加わった清水金三郎は門前で門下生等を警戒し、6名で屋敷内へ入ったのです。
一番に入った西村を見て菅野は「何者だ」と尋ね、西村が「本多従五位の旧臣、復讐に参った」と答えると、覚悟していたのか、菅野は「心得た」といいながらすぐに立ち上がり隣室に入って手槍に手を伸ばそうとしましたが、西村もすぐに菅野に接近したため、手槍を諦めた菅野は西村に飛びつきます。
格闘になりますが、他の5人もすぐに戦闘に加わり菅野を討つことに成功し、県庁に自首したのです。
一方、多賀を追っていた芝木、藤江は、翌24日に近江長浜で同僚たちと駕籠で移動していた多賀に追いつきます。両名は多賀の籠の左右に近寄ると、「旧主本多従五位の復讐」と声を掛け多賀を討ち果たし、多賀の同僚に事情を説明すると、そのまま彦根県庁に自首します。
残る東京で石黒圭三郎を狙った島田伴十郎・上田一二三は、12月1日に東京に着いて心当たりを探すも、果たせないまま、12月16日、金沢県から差し向けられた捕縛使に逮捕されています。
明治5年11月4日、事件関係者への判決が下りますが、直接3人(岡野悌五郎・菅野輔吉・多賀堅三郎)の殺人に加わった弥一ら12名が切腹、菅野輔吉殺害時の見張り役であった清水が禁固10年、石黒圭三郎を追って東京へ行った島田・上田が禁固3年の判決となりました。
この時の判決が日本法制史上最後の切腹刑となりました。そして翌明治6年2月7日に「復讐禁止令」が布告されることになります。
切腹した12名は「十二義士」として政均の墓近くに葬られています。まさしく明治の忠臣蔵といえるのではないでしょうか。
なお、義士たちのうち生き残った3人は、出獄後、清水金三郎は本多家に仕え、島田伴十郎は小学校の教員となっており、上田一二三は暇さえあれば十二義士の墓に参っていたそうです。
【主要参考文献】
国立国会図書館デジタルコレクション
〇石川県史(石川県)
〇加賀本多家義士録(渋谷元良編:葵園会)
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