丹羽長秀の最期
丹羽長秀は織田家の宿老で柴田勝家とともに双璧とも呼ばれていました。秀吉が柴田勝家と丹羽長秀をあやかって「羽柴」と名乗ったとの説もあるのは有名ですね。
長秀は、本能寺の変後は秀吉に味方して明智光秀と戦い、賤ケ岳の戦いでも秀吉に味方し、越前・若狭の領国及び加賀の一部も合わせて123万石を宛がわれ、越前の北庄城に居しました。
秀吉は長秀と接近のため、信長の死後、長秀の三男(後の藤堂高吉)を跡継ぎのいなかった弟秀長の養子に迎えています。
翌年の小牧長久手の戦いでも秀吉に属しましたが自らは参陣せず息子の長重が参陣します。そして、ついには秀吉が織田信雄、信孝を退けて天下を手中にしようとするに及びます。

秀吉と良好な関係を保持していた長秀ですが、信長の重臣として織田家に尽くしてきた長秀にとっては、秀吉が次第に増長し織田家をないがしろにしはじめたことで複雑な心境に陥っていたのではないでしょうか。
本当の心境は分かりませんが、もはや秀吉との勢力差は如何ともし難く、長秀自身も腹の虫(寄生虫)に悩まされて不自由な日々を過ごします。
床に臥せることも多くなりますが、「無念じゃ」と叫んで突然飛び起き、涙を流すこともあったといいます。
日夜病苦に苛まされた天正13年(1585)4月14日、死期を悟った長秀は、秀吉に遺書ともいうべき手紙を出します。その内容を次に紹介します。
先の便りにも申し上げたように、この病は、遂に療養のしるしがないので、京都に上ることは遠慮いたした。
五三日以前には今頃上洛すると申し上げたが、この二三日、いよいよ病勢が重くなり、少しも枕があがらないので、なお五三日見合わせ、たとえ上洛の途中、道端で相果てようとも、罷り上ろうと存じ申した。
まことに日頃は特に御目をかけられ、どのような大国をも領知すべきほどの恩遇を賜ったが、何ら御用にも立たずに死ぬのは、いかにも口惜しいが、それも致し方ない。
跡継ぎのことは、倅や家中の者どもを御覧なされ、その技量に従って指図なされたい。
このような物は如何かと存ずるが、あらみ藤四郎の脇差と、大ごうの刀と、虎の絵とを、遺物として進上いたしたい。拙者と思って、愛玩していただきたいためである。
詳しいことは、成田弥左衛門と長束藤兵衛が申し上げる。
卯月十四日
惟住越前守長秀
秀吉様
この手紙を書いた2日後の4月16日、長秀は病死します。長秀の死に様については、腹を掻き切って、自分を苦しめ続けた腹の中の塊を取り出して亡くなったとも伝わります。
本能寺の変からわずか3年後の天正13年(1585)、長秀51歳でした。
なお、秀吉より長秀の方が大分年上とのイメージもありますが、長秀は天文4年(1535)9月生まれ、秀吉は天文6年(1537)2月生まれと、1歳半しか違いません。ちなみに柴田勝家は大永2年(1522)生まれで一回り年上でした。
丹羽長秀の子孫~丹羽家のその後
改易と大名としての復活
長秀の死後は、嫡男長重が越前国・若狭国・加賀国2郡合わせて123万石を相続する大大名となりますが、越中攻めの際に軍律違反があったとして秀吉から越前国、若狭国と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられてしまうのです。これは秀吉による丹羽氏の勢力削減策だったといわれ、加賀松任(まっとう)4万石の小大名にまで成り下がってしまいました。
小田原征伐後は12万石に加増、従三位参議に叙任され、一応の名誉回復はなされています。
関ヶ原の戦いでは長重は西軍に与して、本戦ではないものの北陸において前田利長2万5千の大軍を相手に3千の兵で善戦するなど活躍しますが、戦後は命は奪われなかったものの改易されてしまいます。
しかし3年後の慶長8年(1603)、長重は常陸国古渡(ふっと)1万石の藩主となり大名として復活を遂げます(立花宗茂と似ていますね)。築城技術を持った長重の能力を買われたとも、長重の妻(信長の娘)の従姉妹で秀忠正室であったお江の方の影響があったとも。
長重は秀忠から気に入られていたようで、その後江戸崎2万石、棚倉5万石、白河10万石と転封されながら加増を重ね、離散していた旧臣たちも戻って来たそうです。長重の子・光重の代に陸奥二本松藩10万石に転封となり、その後丹羽家は代々二本松藩主として幕末まで続いています。
幕末の二本松藩~二本松少年隊の悲劇
会津の白虎隊とならび少年兵の悲劇として知られるのが二本松少年隊です。
二本松藩は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に対抗しますが、同盟各藩が次々と陥落する極めて厳しい戦況の中、二本松藩の主力は各地を転戦し二本松の守りは手薄となります。病の藩主丹羽長国は米沢藩に避難し、一門で家老の丹羽富穀(とみたけ)が指揮を取ります。
二本松藩は伝統的な軍制への意識が強く近代化が進んでおらず、悲観的な戦況の中、隠居した老人たちだけでなくまだ幼い少年たちも戦いへの参加を志願し、元々出陣の許される年ではなかった12歳~17歳の少年約60名も戦いに加わったのでした。

二本松城(復元門・櫓)
しかし劣勢は挽回されることなく二本松兵は各地で新政府軍に撃破されます。ついに二本松藩は城に火を放って丹羽富穀らの重臣は「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と自害、城兵は玉砕し、少年兵14名を含む337名が戦死したとされます。他の藩が城を捨てたり降伏するなか二本松藩は城を枕に玉砕しており、戊辰戦争の中で最も激しい戦いであったともいわれています。
なお、戦後10万石を5万石に半減されて二本松藩(丹羽家)は存続し、後に子爵となっています。








新着記事