丹羽長秀の最期
丹羽長秀は織田家の宿老で柴田勝家とともに双璧とも呼ばれていました。秀吉が柴田勝家と丹羽長秀をあやかって「羽柴」と名乗ったのは有名ですね。
長秀は、本能寺の変後は秀吉に味方して明智光秀と戦い、賤ケ岳の戦いでも秀吉に味方しましたが、秀吉が次第に増長し織田家をないがしろにしはじめたことで鬱積した日々を送っていました。
織田家のためにと成り行きで秀吉に付いていたのでしょうが、ついに秀吉が織田信雄、信孝を退けて天下を手中にしようとするに及びます。
信長の重臣として織田家に尽くしてきた長秀にとっては秀吉の天下など我慢できることではなかったでしょうが、もはやその勢力差は如何ともし難く、長秀自身も腹の虫(寄生虫)に悩まされて不自由な日々を過ごします。
床に臥せることも多くなりますが、「無念じゃ」と叫んで突然飛び起き、涙を流すこともあったといいます。
日夜病苦に苛まされたある日、長秀は、
「この腹の中にある塊は儂を日ごとに苦しめて殺そうとする恨み深い奴じゃ!殺してくれるわ」
と叫び、自ら腹を掻っ捌き臓腑とともにその塊を掴みだすと、そのまま悶絶して息を引き取ったといわれます。
本能寺の変からわずか3年後の天正13年(1585)、長秀51歳でした。
丹羽長秀の子孫~丹羽家のその後
改易と大名としての復活
長秀の死後は、嫡男長重が越前国・若狭国・加賀国2郡合わせて123万石を相続する大大名となりますが、越中攻めの際に軍律違反があったとして秀吉から越前国、加賀国と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられてしまうのです(秀吉による丹羽氏の勢力削減策だったといわれます(>_<))。
更に長重は関ヶ原の戦いで西軍に与してしまい改易されてしまいますが、3年後には古渡1万石の藩主となり大名として復活を遂げます(立花宗茂と似ていますね)。築城技術を持った長重の能力を買われたとも、長重の妻(信長の娘)の従姉妹で秀忠正室であったお江の方の影響があったとも。
長重は秀忠から気に入られていたようで、その後江戸崎2万石、棚倉5万石、白河10万石と転封されながら加増を重ね、長重の子・光重の代に陸奥二本松藩10万石に転封となり、その後丹羽家は代々二本松藩主として幕末まで続いています。
幕末の二本松藩~二本松少年隊の悲劇
会津の白虎隊とならび少年兵の悲劇として知られるのが二本松少年隊です。
二本松藩は奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍に対抗しますが、同盟各藩が次々と陥落する極めて厳しい戦況の中、二本松藩の主力は各地を転戦し二本松の守りは手薄となります。
悲観的な戦況の中、隠居した老人たちだけでなくまだ幼い少年たちも戦いへの参加を志願し、元々出陣の許される年ではなかった12歳~17歳の少年約60名も戦いに加わったのでした。
二本松城(復元門・櫓)
しかし劣勢は挽回されることなく二本松兵は各地で新政府軍に撃破されます。ついに二本松藩は城に火を放って玉砕し少年兵14名を含む337名が戦死したとされ、戊辰戦争の中で最も激しい戦いであったともいわれています。
なお、藩主丹羽長国は米沢藩に逃れており、戦後10万石を5万石に半減されて二本松藩(丹羽家)は存続し、後に子爵となっています。
新着記事