今回紹介する小山田信茂は甲斐武田家滅亡の時、勝頼を最後の最後に裏切った武将として知られています。
最近では武田信玄生誕500年に合わせて制作された短編ドラマ「信茂と勝頼」でお笑いコンビ「ジャルジャル」の後藤淳平さんが信茂の役を演じています。
今まで大河ドラマ等で演じられてきた信茂像と違い、最後まで勝頼との厚い信頼関係が描かれており、なかなか興味深いドラマでした。
信茂は甲斐郡内領主小山田信有の次男として天文8年(1539)に生まれます(出生年には諸説あり)。
郡内小山田家は甲斐守護武田家に属する国衆で、甲斐郡内地方において半独立的な存在でした。
ここで重要なのは郡内小山田家は代々武田家に仕えてきたのではなく、信玄の父信虎の代から属した国衆だということです。
そのため武田家に従ってはいましたが、江戸時代の藩主と藩士のような明確な主従関係があったわけではありません。
武田家から動員命令があれば兵を出しますが、逆に国衆である小山田家が他国から攻められれば武田家が守らなければなりません。
関東では上杉家と北条家の間で戦が起こるたびに離反を繰り返す国衆が少なからずいたのが実情でした。
その点、織田家内における信長と秀吉との主従関係とは違います。同じ国衆である真田昌幸も武田、織田、北条、上杉とその時の時勢によって主君を変えていますし、、、
天正9年(1581)12月、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が武田家を離反します。これに伴いついに織田信長・徳川家康が甲州征伐を開始することになります。
総大将は信長の嫡男信忠で副将が滝川一益という陣営です。また、北条家も武田領への侵攻を開始しました。
『信長公記』によれば、翌年3月3日に勝頼は新たに築城した新府城を放棄し、小山田家の郡内へ逃れたといわれています。
また『甲陽軍鑑』によれば、信濃の国衆・真田昌幸は上野岩櫃城への退避を提案しましたが、勝頼側近の長坂光堅が信茂を頼り郡内の岩殿城へ逃れることを主張したといわれています。
勝頼一行は郡内領へ逃れようとしますが、信茂が勝頼から離反したため、勝頼は田野において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、甲斐武田家は滅亡することになります。
甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出し、信長の配下に加わろうとしますが、信忠から武田家への不忠を咎められ、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたといわれています。
武田一門筆頭の穴山信君(梅雪)もそうですが、武田家に従属はしていましたが、完全に家臣化されていたわけではなく、信茂の行動は一族を守るためには仕方がなかったといえるのかもしれません。勝頼を裏切ったことには変わりありませんが、、、
しかし、信茂が武田家を離反したことによって結果的に郡内の領民を戦禍から守ったことは間違いありません。もしも勝頼を岩殿城に迎えていれば、領民にもかなりの被害がでていたと思います。
現在、信茂の地元でも功績を顕彰されているそうで、新たな史料の発見によって、また違った見方ができるかもしれません。
信茂の子孫(孫娘香具姫)に関する話はこちら⇓
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