幕末の戊辰戦争は、薩摩・長州を中心とした新政府軍が各地の戦いで、一方的に幕府軍を破ったというイメージがあります。
しかし、奥羽越列藩同盟の中で、庄内藩だけは新政府軍に連戦連勝だったのです。今回は、その幕末最強の庄内藩とその中でも「鬼玄蕃」と恐れられた酒井了恒(のりつね)について解説していきます。
ここでは、了恒は「玄蕃」で統一してお話します。
幕末の庄内藩
はじめに幕末当時の庄内藩の情勢についてみていきます。
庄内藩主の酒井家は、徳川四天王の一人酒井忠次の嫡流で、譜代の名門でした。
庄内藩の石高は14万石でしたが、幕末には江戸市中警護の功により17万石まで加増されています。庄内藩が幕末の動乱に巻き込まれることになった大きな原因は、江戸市中取締役となったからでした。
幕末の慶応3年(1867)、江戸市中では無頼の浪士集団が暴行や略奪を繰り広げており、治安が悪化していました。この集団の本拠地は薩摩藩邸であり、西郷隆盛が裏で彼らを操っていました。
その目的は旧幕府側を挑発して、戦争に持ち込むことでしたので、最後の将軍徳川慶喜からは決して手を出してはならないと厳命されていました。しかし、最初は我慢していた庄内藩士も、ついに堪忍袋の緒が切れます。
慶応3年(1867)12月25日、庄内藩兵は薩摩藩邸に乗り込み、焼き討ちにしたのです。そして、このことが原因で庄内藩は薩摩藩から恨まれることになります。
翌慶応4年(1868)1月に戊辰戦争の初戦となる鳥羽・伏見の戦いが起きます。
そして、江戸無血開城で徳川慶喜が降伏したことで、振り上げた拳を下ろす相手を失った新政府軍はその討伐の相手を東北に変えました。その討伐の対象になったのが、庄内藩と会津藩でした。
庄内藩は薩摩藩邸焼き討ちで薩摩藩から恨みを買っており、また会津藩は京都で長州藩と対立して追い落としており、長州藩から恨みを買っていました。東北諸藩は、庄内藩と会津藩を守るべく同盟を組み、新政府軍との対決姿勢を鮮明にして、東北戦争へとつながっていきます。
そして、今回のブログで紹介する酒井玄蕃が戦場に登場することになります。
玄蕃の先祖
ここで今回の主人公酒井玄蕃の先祖について解説します。
玄蕃の先祖の酒井了次(のりつぐ)は、庄内藩主酒井家次の5男でした。家康の重臣で徳川四天王の一人・酒井忠次の孫にあたります。この了次はもともと旗本として幕府に仕えていましたが、孫の代から庄内藩主酒井家に家老として仕えています。
庄内藩では、藩主一門の玄蕃家として代々尊敬される立場にあったのです。しかし、玄蕃の叔父酒井右京は、藩内の権力闘争に巻き込まれ切腹しています。そして、玄蕃家は冷遇されることになったのです。
庄内藩の進軍
藩内で冷遇されていた玄蕃家ですが、庄内藩が東北戦争に巻き込まれて危機に陥ったことで、玄蕃に出番が回ってきました。藩内でトップクラスの名門出身というだけでなく、玄蕃の能力も買われたのでしょう。
庄内藩の中老に抜擢された玄蕃は、二番大隊長として庄内藩を率いることとなりました。このとき彼は、僅か26才の青年でした。後に新政府軍から鬼玄蕃と恐れられた伝説の始まりです。
次に戊辰戦争時の庄内藩の動きをみていきましょう。
慶応4年(1868)3月28日、薩摩藩邸焼き討ちの報復で新政府軍より庄内討伐の命令が出ます。新政府の先鋒を務めていたのが、織田信長の末裔が藩主である出羽天童藩でした。
玄蕃は600の兵を率いて天童藩領に侵攻し、天童陣屋を陥落させました。天童藩主・織田信敏は仙台藩に逃れました。5月6日、奥羽越列藩同盟が結成されます。
しかし、最初は味方だった秋田藩と新庄藩が新政府側に寝返ったことで、庄内藩と庄内藩の支藩である出羽松山藩ら旧幕府軍は、新庄城の攻略に向かいます。玄蕃率いる庄内藩二番大隊と家老松平甚三郎率いる一番大隊は、新庄城を落とすため北上します。
羽州街道を北上していた一番大隊ですが、新庄軍の奇襲を受けて撤退します。一番大隊が敗走した後も、玄蕃隊は巧みな戦術で、数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、反撃しました。
そして、2時間の激戦の後、新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したといいます。その後、新庄城を焼き討ちしました。新庄城陥落の際は、藩主の居室には決して土足で踏み込まないよう命令を徹底し、土蔵を封印して略奪を禁じたといいます。
玄蕃の人柄がわかる逸話ですね。
新庄藩を攻め落とした庄内軍は、次に秋田藩に攻め込みました。秋田藩の支城である横手城を陥落させた玄蕃は、わずか2か月足らずで藩主居城の久保田城目前にまで進軍しました。藩主の佐竹義堯は、死を覚悟したほどといわれています。
そこで新政府軍は、秋田戦線に新政府軍の中でも最新の武器を装備していた佐賀藩兵を援軍として送り込むことにしました。こうして久保田城を落城寸前まで追い詰めた庄内軍でしたが、秋田戦線に佐賀藩兵を援軍として送り込まれると、一進一退の攻防を繰り広げることになります。
本間家の支援
なぜ、東北の一大名に過ぎない庄内藩がこれほど強かったかというと、そこにはある豪商の存在がありました。それが、酒田の豪商本間家です。
本間家は、北前船を使った廻船で莫大な富を築き、酒田周辺の大地主となっていました。その本間家が、庄内藩に軍資金を援助していたのです。この本間家は、殿様をしのぐほどの資産家であり、酒田では、こんな戯れ歌がありました。
「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」
庄内藩兵は、この本間家の財力で7連発のスペンサー銃やスナイドル銃などの最新兵器で武装することができたのです。また庄内藩は、武士と領民の結びつきが強いことで知られていました。江戸時代に酒井家は領地替えの危機がありましたが、領民の反対で転封の話がなくなったこともありました。
戦後処理
連戦連勝だった庄内藩ですが、さすがに孤軍奮闘だった状況に限界がきます。同盟諸藩が次々と新政府軍に降伏していくなかで最後まで新政府軍に抵抗した庄内藩でしたが、会津藩の降伏の4日後にとうとう抵抗をやめ降伏しました。
結局最後まで領内に新政府軍の侵攻を許さず、庄内藩領を守り抜いたのです。庄内藩は最後まで新政府軍と戦い続けたため、最悪の場合、領地は没収で、新政府軍からの報復は恐ろしいものになると思われていました。
しかし、予想に反して庄内藩の処分は比較的軽いものでした。17万石から12万石への減封だけで済んだのです。領地は減らされましたが、最後まで抵抗したことを考えれば、寛大な処分だったといえます。
庄内藩と同じく朝敵とされた会津藩は23万石から3万石に減封の上、当時不毛の荒れ地であった斗南(現在の青森県むつ市)へと転封させられています。しかし、庄内藩は転封を免れました。
この寛大な処分の理由はいくつか挙げられます。
まず、各地の戦闘で勝ちまくっていた実績があったことです。新政府からみても、降伏させたという実感がなかったのではないでしょうか。
次に本間家からの新政府への献金です。
「70万両を献金すれば、転封を撤回する」という事を知った本間家当主本間光美(こうび)は、大金を集めるため奔走し、明治2年(1869)12月に30万両を献金しました。その後残りの40万両は献金不要となり、転封を免れました。
そして西郷隆盛の存在です。この寛大な戦後処理は、西郷隆盛の指導の下といわれています。庄内藩が朝敵となった理由は薩摩藩邸を焼き討ちしたからです。しかし、江戸の町を混乱から守るために庄内藩は薩摩藩と対決しました。このことから西郷は後ろめたい気持ちがあったのかもしれません。
西郷が庄内藩をかばったということで、その恩に報いるために西南戦争が起きると元庄内藩士が薩軍側に加わっています。現在でも、庄内地方では西郷隆盛の人気が高いといわれています。
明治維新後、玄蕃は下野した西郷をはるばる鹿児島まで訪れています。
戊辰戦争後の玄蕃
玄蕃は庄内藩降伏後も中老として藩政に関わっていました。明治4年(1871)には、廃藩置県に伴い大泉県参事となります。
その後、大泉県参事を免じられ、明治政府に仕官して、兵部省七等出仕に任ぜられました。
明治7年(1874)には、鹿児島で初めて西郷隆盛と会います。
その後、玄蕃は政府の密命を帯びて清国にわたり「北清視察戦略」を提出します。この「北清視察戦略」には中国大陸の地理や気候風土が詳細に記されていたといわれています。
玄蕃は明治9年(1876)に35歳の若さで肺結核を患って亡くなりました。墓は谷中霊園にあります。(遺髪塔が鶴岡大督寺に有り)
最後に薩摩藩士大山綱良との逸話を紹介します。
戊辰戦争で出羽方面の新政府軍の参謀を務めたのが大山綱良でした。この大山綱良(格之助)は西郷隆盛の盟友で、「寺田屋事件」で過激派の薩摩藩士を粛清した人物として知られています。この大山の前に鬼玄蕃率いる庄内藩が立ちはだかったのです。
鬼玄蕃によって連戦連敗を喫した大山にとって、おそらく玄蕃は見るからに豪傑な風貌をしていると思っていたのでしょう。しかし、戊辰戦争が終結した維新後の東京で、はじめて鬼玄蕃と会った大山は驚くことになります。大山は、思わずこう言いました。
「あの鬼玄番の勇名を欲しいままにした足下が、容貌かくも温和で、おなごのようなよかちご(美少年)じゃったとは……」
現代の感覚で当時の写真をみると女性のようなほっそりとした美少年とは微妙に違いますが、イケメンだったのは間違いありません。
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